次第に鼓動が静まると、サヤの唇に自然と笑みが浮かぶ。
「……びっくりさせてくれるじゃないの。でも、次に驚くのは、ブレイドの番なんだからね。異世界の勇者だか何だか知らないけど、この世界の文明の力、たっぷりと味わってもらうわよ。……あなたのお尻でね」
小声で楽しそうにそうつぶやくと、サヤはトイレの中から聞こえてくるであろう悲鳴を、期待に胸を膨らませて待った。
…………。
しかし、いつまで経っても、中からブレイドの驚きの声は聞こえてこない。
(……あれ? 無反応すぎない?)
違和感を覚え、サヤはドア越しにそっと声をかける。
「ブレイド? もしかして……使い方、わからなかった?」
「いや、問題ない。言われた通りやったし、もう一度押せば水が止まるのも理解した」
ブレイドのあまりに冷静な返答に、サヤは思わず黙り込む。
(……え? それだけ?)
腑に落ちないブレイドの反応に、サヤは眉をひそめる。
「……ねえ、ブレイド。中に入っていい? ズボンはもう穿いた?」
「ああ、問題ない」
サヤはゆっくりとドアノブを捻り、恐る恐るトイレの扉を開けた。
相手は女の子の前でいきなりズボンを脱ごうとする男だ。穿いたと口では言いつつ、実は穿いてない可能性も考えて警戒したが、中には、きちんとズボンを履き直したブレイドが、まるで何事もなかったかのように平然と立っていた。
「……本当に、試してみたの?」
「ああ、言われた通りにしたぞ」
「……お尻に水が当たらなかった?」
「ああ、当たったぞ」
当たり前のように言われて、サヤはますます混乱する。初めてお尻洗浄を体験した人間が、ここまで平然としているのが信じられなかった。
「……なのに、どうしてそんなに平気な顔をしてるの?」
「ん? サヤは尻に水を当てるだけで騒ぐのか? もしかして……そんなことをして喜んだりしているのか?」
「ちょっ、違うっ! 誰がそんな変態みたいなことをするって言ったのよっ!」
反射的に叫んだ自分に気づき、サヤはさらに顔を真っ赤に染める。
「だったら、不思議がることもあるまい」
「いや、でも……ブレイドの世界じゃ、トイレの後に水でお尻を洗ったりしないでしょ? 初めての体験なのに、その余裕っぷりは……ちょっと、ありえないっていうか……」
「おいおい、異世界だからって、侮ってもらっては困るな。確かに、こんな便器は存在しないが、排泄後に水魔法で尻を洗うくらい、冒険者として当然の嗜みだ。衛生に気を遣うのは当然のことだろうに」
あまりにも自然に告げられたその事実に、サヤは言葉を失った。
「……もしかして、サヤは俺のいた世界を文化的に劣った世界だとでも思っていたのか?」
優しい口調だった。けれど、その一言は、サヤの胸に突き刺さる。
図星だった。自分では気づいていなかったが、サヤはどこかで、自分の世界の方が進んでいると思い込んでいた。
「いえ、そんなつもりじゃ――」
言いかけて、思い出す。自分がどれだけ彼に「驚き」を期待していたのかを。現代技術を見せつけて、すごいと感心されることを楽しみにしていた自分がいたことを認めざるを得なかった。
サヤはふっと息をつき、そっと目を伏せた。
「……ごめんなさい。私が間違っていたわ」
絞り出すような声で、謝罪の言葉を口にした。そして、そのまま深く頭を下げる。自分がいかに思い上がっていたか、今さらながらに痛感して、恥ずかしくて顔を上げられなかった。
そんな彼女の姿をじっと見つめるブレイドの顔は、どこまでも穏やかだった。怒るでもなく、責めるでもなく――ただ優しげだった。
「サヤのいいところは、そうやって自分の非を素直に認め、謝罪できるところだな。それはサヤの美徳だ」
包み込むような声だった。その一言が、じんわりとサヤの胸の奥へ染み込んでいく。心のどこかがふっと軽くなって、息が楽になる。こんなふうに言ってもらえるなんて、思ってもいなかった。
「なによ、上から目線で……」
サヤはそっぽを向きながら、しかし隠しきれない笑みを浮かべた。
わかりやすい人間だと自分でも思いながら、サヤはそっと顔を上げる。
「お詫びといってはなんだけど、ルームサービスをごちそうするわ。こっちの料理のことはよくわからないでしょうから、私の方で適当に選んでいいよね?」
「ルームサービスとやらが何かわからんが、飯が食えるのならありがたい。任せる」
サヤの精一杯の気遣いを、ブレイドは素直に受け取った。
「りょーかい。じゃあ、注文しておくから、テレビでも見て待ってて」
「テレビ?」
「あ、そっか。わかるわけないよね」
サヤは笑って、ブレイドをリビングへ連れて行った。テーブルの上に置かれたリモコンを手に取り、慣れた手つきでテレビの電源を入れる。真っ黒だった画面がパッと明るくなり、ドラマの俳優が喋り始めた。
「やっぱり、ブレイドの世界にも、似たようなものがあったりする?」
それは、興味から出た自然な問いだった。さっきまでの上から目線の態度ではない。バスルームとトイレの一件で、サヤの意識はすっかり変わっていた。異世界を「遅れた世界」として見下すような気持ちは、すでに消えていた。
「そうだな……さすがにこれと同じものはないが、映像魔法で演劇や舞踏を遠隔で観ることはある。魔晶石に映像を記録しておいて、後から見返すなんてこともあるな」
「だよね~」
サヤはくすりと笑った。
半ば予想していた答えで、もはや驚きはない。
「このボタンを押すと番組を変えられるから、好きなの見てて」
そう言ってサヤはリモコンを手渡す。
ブレイドは興味深げに受け取り、試しにチャンネルボタンを押した。
画面が切り替わり、今度はサッカーの試合が映し出される。
「なるほど、これは便利だな。……ふむ、これは運動競技か。俺の世界でも、闘技大会を遠隔で観ていたりしたな」
「じゃあ、私はルームサービスを注文してるから」
サヤはスマホを手に取り、画面をタップし始めた。フロントに電話をかける必要もない。画面を数回なぞるだけで事足りる。
彼女は「ブレイドはこの世界の料理を気に入ってくれるだろうか」なんて考えながら、人気のメニューをいくつか注文し、ブレイドの方へと視線を戻した――その瞬間だった。
「なんだこれは!?」
ブレイドが、はっきりとした驚きの声を上げた。
「えっ、どうしたの?」
サヤが慌てて近づくと、ブレイドはテレビ画面に釘付けになっていた。
そこに映っているのは、鮮やかな映像で描かれたロボットアニメ。
「……絵が、絵が動いて、喋っているぞ!」
目を丸くしたブレイドは、まるで奇跡でも目の当たりにしたかのようだった。
「待て、そんなものに人が乗るのか!?」
画面いっぱいに映し出された巨大な人型兵器が、コックピット内のパイロットの映像とともに雄々しく動き出す。
次の瞬間、ロボットは爆音とともに地上から跳躍し、空へと舞い上がった。
「ば、ばかなっ! その巨体が飛ぶというのか!?」
ブレイドは思わず身を乗り出し、感嘆の息を漏らした。筋骨たくましい身体がわずかに震えている。
「……飛翔魔法を使っても、あんな動きはできん。質量を完全に無視している……!」
アニメの映像に、彼は本気で感心していた。
「なんという威力の技! 俺の
画面では、巨大ロボットがビームを放ち、敵を一瞬で消し飛ばしていた。
地響きのような効果音が部屋中に鳴り響く。
ブレイドは肩を跳ねさせ、その目に宿る輝きはまるで少年のようだった。
「くっ……これが異世界の文明の力か!?」
ブレイドは拳を握りしめながら、熱い眼差しをテレビへ向け続けた。
その横顔を見つめながら、サヤはつい微笑んでしまう。
「まさかアニメでブレイドをこんなに驚かせることができるなんてね。……ブレイド、言っておくけど、それは全部創作物だからね」
「……安心しろ、そんなことはわかっている。だが、この迫力と臨場感、そして驚異的な想像力……この世界の文明は侮れんな」
その言葉にサヤは嬉しそうに笑った。
「私の世界も、なかなかのもんでしょ」
その声には、どこか誇らしげな響きがあった。
異世界から来た彼に、自分の世界の魅力を少しは伝えられた――そんな確かな手応えが、サヤの心を満たしていた。