「……個人番号? 何だ、それは?」
首を傾げたブレイドの顔には、明確な困惑が浮かんでいた。たとえ勇者補正で言語を理解できたとしても、知識にない概念までは補完できない。
「いい? 個人番号っていうのは、この日本に『国民として存在している』っていう証みたいなものなの。国民全員にその人だけの番号が与えられて、生活のあらゆる場面でそれが使われるの。……いわば、最強の身分証明書みたいなものね」
かつて「マイナンバー」と呼ばれていた制度は、「ダンジョン」出現を機に、安全保障の観点から法改正が行われ、「個人番号」へと進化していた。今では指紋や網膜、果てはDNA情報までもが紐づけられた国家管理の個人認証システムとなっている。万一ダンジョン内で命を落としたとしても、髪の毛一本、血液の一滴でもあれば、瞬時にその身元を特定できる。
そして、ハンター登録には、この個人番号とのリンクが絶対条件だった。
「――つまり、個人番号がなければ、ハンターにはなれないのよ」
説明を終えたサヤは、小さく肩を落とした。現実は、いつだって冷徹だ。
「そんなもの無視してダンジョンに入ればいいのではないか? 昨日のミノタウロスのように、すべてサヤが倒したことにすれば問題あるまい」
「そういうわけにもいかないのよ。無許可のハンターを連れてダンジョンに入ったことがバレたら、私がお咎めを受けるの。それに――ブレイドの功績を自分の手柄にするような真似は、もうしたくないから」
自分を救ってくれたブレイドの力を、まるで自分のもののように誤解される――それは、彼に対しても、自分自身に対しても、不誠実でいたたまれないことだった。
胸元に手を当てる彼女の姿を、ブレイドは静かに見つめる。
「そうか……。ならば、今からその個人番号とやらを取得する方法はないのか?」
「……一応、外国から来た難民扱いにすれば、仮の滞在番号は発行してもらえるはず。ハンターの私が保証人になれば、多分、申請も通ると思う。でも、それはあくまで仮の番号。市民として生活する分には不都合はないけど……正式な個人番号じゃないから、ハンターの登録はできないのよ」
腕を組みながら、サヤは小さく天井を仰いだ。そこにあるのは希望ではなく、制度という名の高い壁だった。
だが、そこでふと、彼女の脳裏に一つの仮説が浮かぶ。
(……ブレイドが本当はこの世界の人間って可能性もないわけじゃないよね)
ブレイドが嘘をついているとは、もはや思っていない。彼の言葉には一貫性があり、何よりその力は、この世界の常識を超えている。
だが――それでも可能性は消えていない。
たとえば、精神だけがこの世界に転移し、肉体は元からこの世界のものだとしたら?
あるいは、異世界転移ではなく異世界転生――つまり、この世界に生まれ直し、今になってようやく前世の記憶を取り戻したのだとしたら?
どちらにせよ、ブレイドの「肉体」がこの世界の記録に存在していれば、正式な個人番号が存在する可能性はゼロではない。
「ねぇ、ブレイド。試しに、あなたの個人番号が登録されているか、確認させてくれない?」
「それは、簡単に確認できるのか?」
「ええ。住民票の自動交付機の前に立つだけでいいの。最初に個人番号の認証を求められるから、そこで網膜スキャンか指紋認証を試してみるの。それが通れば、個人番号が存在するってことになるわ」
「……よくわからんが、やること自体は簡単だということだな。了解した」
ブレイドは警戒する素振りもなくうなずいた。信頼してもらえているようで、サヤの表情が自然と柔らかくなる。
「ふふ、素直で助かるわ。……まあ正直、登録されている可能性はかなり低いけどね」
「いや、わからんぞ。俺には勇者補正がある。それで意外となんとかなるかもしれん」
「――――!」
その一言に、サヤは思わず目を見開いた。
(そうよ! 勇者補正!)
この世界の言葉を自然に理解している奇跡のような力。
その力で、この世界自体が、ブレイドの存在に合わせて、都合よく書き換えられているのだとしたら?
サヤは、確かな可能性が広がっていくのを感じた。
「そうよ! そういう奇跡、あり得るかもしれない!」
ポン、と手を打ち、サヤの顔にぱっと明るさが戻る。勇者の力が、この現実を少しだけ都合よくねじ曲げてくれるかもしれない。そんな「奇跡」を期待してもいい気がした。
「さ、行きましょ! ハンターギルドにも自動交付機は設置してあるわ」
ベッドから勢いよく立ち上がると、サヤはブレイドの手を取り、軽く引っ張った。
ブレイドも黙ってその手を握り返す。
二人は並んで部屋を出た。現実と可能性の狭間で、確かに一歩を踏み出すようにして――
ハンターギルドのロビーの片隅、その壁際に公的な各種証明書を発行する自動交付機が整然と並び、光沢のある床には陽光がうっすらと反射している。ロビー内には人影が見えるが、ここに証明書を取りに来るのはハンターくらいで、わざわざ一般市民が来ることは稀なので、機械の多くは空いていた。
サヤは一台の機械の前で立ち止まり、隣のブレイドに向き直る。
「じゃあ、まずは網膜スキャンから試してみて。とりあえず、画面の真ん中の印を見てくれればいいから」
ブレイドは無言でうなずき、指示された通りに画面中央の丸印を見つめた。
すぐに機械が小さな電子音を鳴らす。
そして、無感情なメッセージが画面に浮かび上がった。
【個人番号の登録がありません】
ブレイドがわずかに眉をひそめる。
サヤは隣で静かにその様子を見守っていた。
「……念のため、指紋も試してみましょう。そこのガラス板に人差し指を置いてみて」
ブレイドは再びうなずき、躊躇うことなくスキャン用のガラス板に指を置いた。
再び機械が短く音を鳴らす。
そして、表示された結果は――
【個人番号の登録がありません】
さっきと同じ、無機質な文字列だった。
「……まぁ、当然こうなるわよね」
サヤは肩を落とし、ため息を一つ零した。わずかに抱いていた期待は、あっけなく砕け散った。
隣のブレイドは、特に動揺するでもなく、淡々と画面を見つめている。
「勇者補正、発動せずか……」
ブレイドが漏らしたその一言に、サヤは思わず吹き出しそうになった。
「勇者っていっても、万能ってわけじゃないのね。でも、そのほうがちょっと安心したかも」
「ん? それはどういう意味だ?」
不思議そうな顔をするブレイドに、サヤはいたずらっぽく微笑んだ。
「ふふん。ブレイドはわからなくていいよ。それに、これであなたが本当に異世界の人間だってことも証明されたわけだし」
個人番号登録がないことで、ブレイドが自分のことを異世界の人間だと思い込んでいるだけのこの世界の人間だという可能性は、完全に消えた。
「なんだ、まだ疑っていたのか?」
「私は疑ってはないわよ。ただ、この世界のシステムも、あなたのことを異世界の人間だって認めたってこと」
「……よくわからんが、それはハンター登録ができないということではないのか?」
ブレイドの現実的な指摘に、サヤの表情も曇った。
「まぁ、そうね。……さて、どうしたものかしら」
サヤは自動交付機の前から離れ、深く息をついた。
ブレイドが異世界の人間だと確認できたことは収穫だが、ハンター登録の問題は何も進展していない。
(でも、ここで諦めるわけにはいかない。ブレイドはただの異邦人なんかじゃない。彼は異世界の人間……私がなんとかしてあげなくっちゃ)
心に芽生えた確かな決意を胸に、サヤは静かに前を向いた。