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第2話 居場所

最初に止まったのは、小児科だった。


 朝刊の折り込みではなく、町の掲示板にプリンターで印刷された紙が貼られていた。「当院は4月をもって閉院いたします。医師の退任と国家改造計画にともなう地域医療再編のため」──署名のない紙面に押された赤い印影だけが、不気味に真実味を帯びていた。


 その週のうちに、内科も整形も姿を消した。通っていた眼科のガラス戸は割れており、中の椅子が逆さまになっていた。何者かが荒らしたのか、それとも職員が放棄して出て行ったのかはわからなかった。

 どちらにせよ、もう誰もここで診察はしない。


 結城蓮の祖母は、持病の薬が減ってきた棚を見て、何も言わなかった。

 「残りはあとどれくらい?」と訊くと、「自分のぶんくらい自分で数えられる」とだけ返ってきた。

 そう言うが、祖母は一日に飲む量を意図的に減らしているのがわかった。

 「薬が切れたら、どうするの?」

 返事はなかった。


 その夜、蓮は一人で市役所の簡易ポータルにアクセスし、近隣の医療機関を検索した。画面には「対応終了」「再配置調整中」「移転準備中」などの表示が並び、すべての施設が灰色に沈んでいた。

 カーソルをスクロールしても、唯一アクティブな施設は県庁所在地の政令都市内にある医療センターだけだった。

 そこまで行ければ、生き延びられる。だが、誰が、どうやって?


 学校も同じように消えていった。

 廊下の照明が半分しか点かなくなり、職員室のパソコンは起動に数分かかるようになった。

 印刷機は使用回数制限が設けられ、テストはGoogleフォームで配信されるようになった。

 オンライン授業用の端末が届くという話だったが、いつになっても届かなかった。


 蓮は、通知表の代わりに配られたPDFファイルの最後に、ひっそりと書かれた一文に気づいた。


「来年度以降、本校は他校との統合を検討中です。詳細は決まり次第、お知らせします」

 通知ではなく、「お知らせ」。何の保証も、約束もない響きだった。


 蓮の隣の席だった坂井は、先週都市へと引っ越した。SNSでは「都市に行けば何とかなる」と書き残していたが、その後は何も投稿していなかった。

 町を出た者たちの多くが、突然ネットからも消えていく。それは、都市に溶けてしまったのか、それとも、何かが起きているのか。誰も確かめようとしなかった。


 校庭の隅に置かれたピアノは、放置されて鍵盤が浮いていた。部活も行事もなくなり、誰も弾かないまま、雨に打たれていた。

 「使わないものは処分する」と書かれた学校便りは、封もされずに配られていた。


 ある日、下校中に、蓮は町の外れにあるクリニックに寄った。

 診察室のカーテンは開け放たれ、書類の山が床に散らばっていた。

 受付の壁に貼られていた紙が剥がれかけており、「最終診療日:3月30日」とだけ残っていた。

 今は4月だった。すでに誰もいなかった。


 ふと、医療廃棄物用の箱が開いたままになっているのに気づいた。

 中には使い捨ての注射器やパッチの束が、ゴミと区別もつかない状態で転がっていた。


 蓮は、無意識にスマホのカメラを起動し、シャッターを切った。

 理由はなかった。

 ただ、この町に何かがあった、という証拠が、あまりに静かに消されていくことが、怖かった。


 夜。祖母は相変わらず花に水をやっていた。

 「ばあちゃん、医者も学校も、もう全部なくなったよ」

 「そうやね」

 「それでも、ここに住むの?」

 祖母はホースを手に持ったまま、少し黙ってから言った。


 「人が死ぬんは、一回だけやけん」

 「でも、それって」

 「町が死ぬのは、何回も死ぬってことよ。あんたは、その中でどのタイミングで逃げるか選ぶんや」


 蓮は、その言葉を受け止められなかった。

 町が死んでいる、という言い方が、あまりに的確すぎた。


 ベッドに入りながら、蓮は考えていた。

 医者がいなくなり、学校が閉じられ、店がシャッターを下ろす。

 それは、ある日突然起きたことではなかった。

 むしろ、「いつでも逃げられた」のに、誰も逃げなかった時間が、問題だったのだ。

 そして今、それが「国家による判断」という形で、見捨てられたことになった。


 蓮は、これが「死」と呼べるのかどうか、まだわからなかった。

 ただ、死ぬ前にすべての準備が整っていくこの町に、自分の居場所はもうなかった。

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