その都市には、風がなかった。
木も、川も、地面すらなかった。あったのは、番号で分けられたブロックと、灰色の建材で囲われた箱のような建物だけだった。
「第5管理区域」と呼ばれる場所が、結城蓮に割り当てられた移住先だった。政令都市・広島の外縁。郊外の住宅街を潰して作られた臨時移住者用ゾーンだという。仮設ではあるが、構造は恒久的。つまり、“一時的な仮”ではなく、“ずっと仮”ということだった。
仮住居の鍵はなかった。ドアには番号ロックがついており、割り当てられたコードを入力することで開閉する。誰が設定したかもわからない番号を、蓮はスマホのメモ帳に控えた。
「部屋の中に盗られるものはないので、施錠は任意です」と係員は言った。
住居の内部は、想像以上に質素だった。シングルベッド、机、給湯器。備え付けの冷蔵庫には何も入っておらず、カーテンはついていなかった。窓から見えるのは、同じような建物の背中と、無表情な空。
「住む」というより、「置かれる」という感じだった。
部屋に荷物を置いたあと、蓮は仮配布されたタブレット端末で「生活ガイド」を読み込んだ。
生活ポイント制。1日ごとに行動履歴と支給物資が連動する。
ゴミ出し、清掃、シフト労働、登録セミナー参加──
いずれかをこなすことでポイントが加算され、そのポイントで食事、衣類、医療を受ける。
ポイントがゼロになった場合、支援は「一時停止」される。
停止期間は最長72時間。延長された場合は「自主的移転」と見なされ、退去措置が取られる。
つまり、「生きていくには、何かしら従え」ということだった。
午後、蓮は近隣の指定作業施設に登録するため、区域内の拠点へ向かった。
移住者センターは簡易的なプレハブで、そこにも灰色の人々が列をなしていた。
無表情な職員が一人ずつに「あなたのIDは、5−Q77です」と番号を告げていた。
蓮もIDを受け取り、就業記録のアプリをダウンロードさせられた。内容は草むしり、清掃、資材整理、配送補助など。どれも「都市で生きる資格を得る」ための労働だった。
「一度も就業しない場合、警告が届きます」と、機械音声が言った。
夜。窓の外に灯りはなかった。
あたり一帯が節電区域に指定されており、街灯は21時で自動消灯される。
人の気配もなく、音もなかった。かろうじてWi-Fiは通っていたが、動画や通話は制限されていた。蓮はスマホの画面を見つめるだけで、何もできなかった。
祖母に電話しようとして、電波制限のエラー表示が出た。
「圏外」ではなく、「使用制限中」と表示されたことが、逆に都市の制御の強さを思わせた。
その晩、蓮は眠れなかった。
何もかもが整っていて、無菌的で、清潔だった。
だがその“整いすぎた”空間に、彼自身の「居場所」がなかった。
冷蔵庫の中と、自分の中身が、同じように空っぽだった。
都市に来れば、生き延びられると思っていた。
だがそれは、“誰かが用意した生”を消費するだけの存在になることを意味していた。
翌朝、目を覚ますと、玄関の外に物資支給袋が置かれていた。
レトルトごはん、保存食、ビニールの服、歯ブラシ。
どれも「これさえあれば死なない」ものばかりだった。
だが、「これがあるから生きられる」と思えるものは、ひとつもなかった。
蓮はその袋を抱えながら、自分がすでに何かを見失っていることを感じていた。
都市にたどり着いても、息が詰まる。
それは、どこかに問題があるというよりも、
最初から、ここは「息をする場所」ではなかったのかもしれない。