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都市の檻

第6話 都市難民区

 名前を呼ばれることはなかった。番号札と顔認証だけが、ここでの「人権」だった。


 雨が降っていた。

 粒は細かく、空気に混じって皮膚の奥にまで染み込むようだった。

 都市境界ゲートの先にあるのは、コンクリートの壁と、番号で区切られたコンテナ群。

 「移住者待機区」と名付けられたその場所は、表向きには“支援施設”ということになっていた。


 だが実態は、都市の余白に押し込められた仮設の牢獄だった。

 居住者は約1万7千人。

 彼らは都市再配置政策によって追い立てられた者たち——

 通称、都市難民。


 蓮は“収容”という言葉を使いたくなかったが、

 実際には収容所と何も変わらなかった。


 「次、10-4571」

 スピーカーから無機質な声が流れる。

 蓮の胸ポケットに挟まった番号札が震える。

 人間として呼ばれることはない。

 ここでは“識別番号”だけが、個の証明だった。


 列に並ぶと、端末に顔を向けるよう命じられる。

 顔認証が通ると、細い管から一枚のマットレスとアルミパックのフードが自動で排出される。

 塩味の効いた白粥と、パウチされたミネラルゼリー。

 消化は良いが、心は削れる。


 「居住権申請は、生活ポイント50ptから」

 「通信端末申請は、100pt。再発行は不可」

 「労働許可証の発行は、累積実績200pt以上」


 壁に貼られたデジタルパネルが告げる。

 ここでは、人間の“値段”がポイントで管理されていた。


 生活ポイントは労働で稼ぐ。

 都市インフラの清掃、公共スペースの整備、物流仕分け、ゴミ選別。

 誰が何をどれだけやったか、すべては端末で記録され、点数化された。


 蓮は、初日に割り振られた仕事場でゴム手袋を渡された。

 「中継ゴミベルトの異物検査、4時間」

 隣には黙ったまま作業をする少年と、視線を伏せ続ける老女。

 誰も会話しなかった。番号だけが交わされる。


 唯一話しかけてきたのは、爪の黒い男だった。

 「お前、まだ声を出せるのか」

 「え?」

 「ここじゃ、黙ってるほど長生きできる」

 「名前は?」

 「もう捨てたよ。今は“03-2219”だ」


 都市は、彼らに名前を必要としなかった。

 必要なのは、識別できるコードと、統計に組み込める労働力。

 誰がどこから来たのかは重要ではなく、

 “今どこにいて、何をしているか”だけが、記録される。


 蓮は、ふと自分の母親がこの制度に組み込まれたらどうなるかを想像した。

 仕事も住民票もない人間が、この空間に放り込まれたとき、

 何日目で「存在をやめる」のか。


 「黙ってると、消えるぞ」

 例の男が言った。

 「口を閉じて、作業だけしてると、な……

 次の配給から名前(番号)ごと外される。あんた、まだ“生き残る”気あるか?」


 その言葉が、蓮の背中に焼きついた。

 存在が許されるには、見え続けなければならない。

 だがそれは、生きることとは少し違っていた。


 この都市では、“記録されない存在”は、存在しないのと同じだった。

 だから誰もが記録されようとする。

 何かに登録されること、ポイントが更新されること、

 その積み重ねこそが“命”の換金だった。


 夜。蓮は狭いコンテナの中でマットレスに横たわる。

 誰かが咳をしていた。誰かが泣いていた。

 だが、それを慰める声はなかった。


 番号が灯る。

 蓮の名ではなく、「10-4571」の赤い光が、静かに彼の存在を証明していた。

 それが、都市における“人権”の定義だった。

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