この都市には、壁がある。
だがそれは、外と中を分ける壁ではない。
「住める者」と「住まされる者」を分ける壁だった。
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細く、長く、まるで縫合された傷のように、都市の地面を走るクラック。
その亀裂が、都市の境界を示していた。
地上の誰もが見て見ぬふりをするそのラインの内側では、
人工芝が敷かれた広場で子どもが英語を歌い、無人配送ドローンが温かいランチを届ける。
外側では、雨樋から落ちる水を煮沸して飲む老人と、破れたレインコートを着た少年が同じ雨に打たれていた。
蓮はその境界を越えた。
彼が立っていたのは、灰色地帯と呼ばれるエリアの外縁。
正式な地図には「再開発予定地」とだけ書かれているが、そこに工事の気配はなかった。
ただ、崩れたコンクリートと放置された鋼材。焼け焦げたバスと、仮設トイレの残骸。
かつて街だった場所の死体。それが灰色地帯だった。
蓮は、背中に重たい視線を感じて立ち止まった。
薄暗い倉庫の入り口。開きかけたシャッターの隙間から、誰かが彼を見ていた。
「……何者だ?」
しわがれた声だった。
しかし、目だけはやたらと澄んでいた。
中にいたのは、20代半ばと思われる男。
髪は短く刈られ、顔に泥がこびりついている。
彼は蓮を一瞥し、ため息のように言った。
「この辺りじゃ、そんな顔じゃ生きていけない」
「どんな顔だ?」
「希望が残ってる顔さ」
男は名を名乗らなかった。蓮も聞かなかった。
代わりに、倉庫の奥を見せてもらうよう頼んだ。
床は土とセメントが混ざったような感触で、不規則な段差が続いている。
天井には裸電球。非常灯から引いたケーブルが、蜘蛛の巣のように張り巡らされていた。
「ソーラーで拾ってる。あんたの都市じゃ、こんなの見たことないだろ」
男は笑った。だがその笑みには、皮肉も誇りもない。ただ、乾いた疲労だけが滲んでいた。
倉庫の一角には、空き缶を切って作られたストーブがあり、幼い姉弟が毛布にくるまって眠っていた。
この灰色地帯には、国も都市も、名前すら与えようとしない命がある。だが、彼らは確かに生きていた。
「昔、こっからずっと南に町があった」
男がぽつりと漏らす。
「山があって、川があって、夜になったら虫の声がした。
もう何年前かも忘れたけど、俺はその町の名前をまだ覚えてる。
たぶん、今じゃどこにも載ってないけどな」
蓮の心臓が、ひとつ大きく跳ねた。
その町の名は、宇和島だった。
「壁の向こうには何がある?」
蓮が聞いた。
男は目を細めた。
まるで思い出の中の景色を見ているような目で。
「多分もう、何も残っちゃいない」
そして一拍おいて、静かに続けた。
「……けど、“誰かがまだ生きてる”なら、残ってることにしてもいいんじゃないか?」
その言葉は、火のように蓮の胸に灯った。
希望ではない。証明のためでもない。
ただ、自分が見捨てたはずの「町」が、まだ誰かの中に在ることが――たまらなく、救いだった。
蓮はもう一度、倉庫の入口から外を見た。
都市の壁が、沈みかけた太陽の光に照らされていた。
それは、光を反射する鋼鉄の壁。
人を守るために築かれたはずのそれは、いつしか人をふるいにかける境界になっていた。
だが今、その向こうに、蓮は自分の「帰るべき場所」の気配を感じていた。