目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第7話 壁の向こう

 この都市には、壁がある。

だがそれは、外と中を分ける壁ではない。

「住める者」と「住まされる者」を分ける壁だった。



細く、長く、まるで縫合された傷のように、都市の地面を走るクラック。

その亀裂が、都市の境界を示していた。


地上の誰もが見て見ぬふりをするそのラインの内側では、

人工芝が敷かれた広場で子どもが英語を歌い、無人配送ドローンが温かいランチを届ける。

外側では、雨樋から落ちる水を煮沸して飲む老人と、破れたレインコートを着た少年が同じ雨に打たれていた。


蓮はその境界を越えた。


彼が立っていたのは、灰色地帯と呼ばれるエリアの外縁。

正式な地図には「再開発予定地」とだけ書かれているが、そこに工事の気配はなかった。

ただ、崩れたコンクリートと放置された鋼材。焼け焦げたバスと、仮設トイレの残骸。


かつて街だった場所の死体。それが灰色地帯だった。


蓮は、背中に重たい視線を感じて立ち止まった。

薄暗い倉庫の入り口。開きかけたシャッターの隙間から、誰かが彼を見ていた。


「……何者だ?」


しわがれた声だった。

しかし、目だけはやたらと澄んでいた。


中にいたのは、20代半ばと思われる男。

髪は短く刈られ、顔に泥がこびりついている。

彼は蓮を一瞥し、ため息のように言った。


「この辺りじゃ、そんな顔じゃ生きていけない」


「どんな顔だ?」


「希望が残ってる顔さ」


男は名を名乗らなかった。蓮も聞かなかった。

代わりに、倉庫の奥を見せてもらうよう頼んだ。


床は土とセメントが混ざったような感触で、不規則な段差が続いている。

天井には裸電球。非常灯から引いたケーブルが、蜘蛛の巣のように張り巡らされていた。


「ソーラーで拾ってる。あんたの都市じゃ、こんなの見たことないだろ」


男は笑った。だがその笑みには、皮肉も誇りもない。ただ、乾いた疲労だけが滲んでいた。


倉庫の一角には、空き缶を切って作られたストーブがあり、幼い姉弟が毛布にくるまって眠っていた。

この灰色地帯には、国も都市も、名前すら与えようとしない命がある。だが、彼らは確かに生きていた。


「昔、こっからずっと南に町があった」

男がぽつりと漏らす。


「山があって、川があって、夜になったら虫の声がした。

 もう何年前かも忘れたけど、俺はその町の名前をまだ覚えてる。

 たぶん、今じゃどこにも載ってないけどな」


蓮の心臓が、ひとつ大きく跳ねた。


その町の名は、宇和島だった。


「壁の向こうには何がある?」

蓮が聞いた。


男は目を細めた。

まるで思い出の中の景色を見ているような目で。


「多分もう、何も残っちゃいない」

そして一拍おいて、静かに続けた。


「……けど、“誰かがまだ生きてる”なら、残ってることにしてもいいんじゃないか?」


その言葉は、火のように蓮の胸に灯った。

希望ではない。証明のためでもない。

ただ、自分が見捨てたはずの「町」が、まだ誰かの中に在ることが――たまらなく、救いだった。


蓮はもう一度、倉庫の入口から外を見た。


都市の壁が、沈みかけた太陽の光に照らされていた。


それは、光を反射する鋼鉄の壁。

人を守るために築かれたはずのそれは、いつしか人をふるいにかける境界になっていた。


だが今、その向こうに、蓮は自分の「帰るべき場所」の気配を感じていた。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?