叫んでも、誰も聞いてくれない。
でも彼女は、それでも叫ぶ。誰かの代わりに怒るように。
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暗いトンネルを抜けたような感覚だった。
蓮は、その名をどこで見たのか思い出そうとしていた。
MIR△――投稿者のハンドルネーム。
都市の“裏側”の現実を切り取った動画群。
スラムの子どもたち、診療所で黙って泣く老婆、焼けたアパートと手を繋いでいた姉妹。
冷たく、鋭利で、どこかやさしい視点の映像だった。
そして──あの目。
地下倉庫の炊き出し所で、初めて出会った少女。
誰とも交わらず、淡々とフードパックを配っていた。
痩せた手首、膝上までまくったジャージ、
それに似合わぬ、火花のような目。
彼女の名前は、高槻奈々。
「この都市、どこが“希望”なんだよ」
蓮が問うと、奈々は眉一つ動かさず答えた。
「それでも来たかった人がいる。だから私は、ここで怒ってる」
奈々は、地方の集落出身だった。
山に囲まれた小さな町で、彼女は祖母と母親と暮らしていた。
ある冬、山崩れが起きた。救助は来なかった。電波も電気もないまま数日が過ぎ、
母が肺炎で倒れ、祖母も衰弱した。
都市からの支援は「非効率」と判断され、切り捨てられた。
奈々だけが生き残った。
「選ばれなかった命だよ、私たち」
彼女は笑って言った。笑いながら泣いていた。
都市に来れば変われると思った。
努力すれば、役に立てば、誰かに“人間”として扱ってもらえると信じた。
けれど、現実は違った。
通学には“教育ポイント”、
病院には“健康ポイント”、
家を借りるには“定住スコア”が必要だった。
「ここ、監獄と一緒だよ」
「でもね、誰も怒らないの。“頑張りが足りないだけ”って言うから」
だから彼女は怒った。叫んだ。暴れた。
怒りを武器に変えたのではない。
怒りを、ただの存在証明として掲げただけだった。
蓮は、彼女の部屋を初めて訪れた。
六畳ほどのプレハブ。
壁にはモニターが三台、バッテリーが二つ、空のスープ缶が積まれている。
食べることより、伝えることを選んだ生活だった。
「MIR△って名前、意味あるのか?」
「……“Mirage(蜃気楼)”の略」
「誰かにとっては希望だけど、近づいたら消える。
でも、その幻を見たってことが、誰かの勇気になるかもしれないから」
蓮は、言葉を失った。
彼女の怒りは破壊じゃなかった。
無関心に抗う、かすかな祈りだった。
ふと、モニターの一つに、蓮の故郷・宇和島の古い映像が映った。
それは、奈々が集めた過去の地方アーカイブだった。
「これ、どこで……」
「あなたがその町出身じゃないかって、ちょっと思ってた」
「電波、まだ届いてるよ。微弱だけど。……たぶん、誰かが生きてる」
壁の向こう。
都市の外。
名前を失った町が、かすかに、確かに、生きていた。
蓮は奈々に言った。
「一緒に行こう。あの町に」
奈々は返事をしなかった。
ただ、少しだけ微笑んだ。
その夜、蓮は初めて彼女の怒りの意味を知った。
それは、自分が捨てかけていたもの――
“まだ、生きていてもいい”という想いだった。