目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第8話 正しい怒り

叫んでも、誰も聞いてくれない。

でも彼女は、それでも叫ぶ。誰かの代わりに怒るように。



暗いトンネルを抜けたような感覚だった。

蓮は、その名をどこで見たのか思い出そうとしていた。


MIR△――投稿者のハンドルネーム。

都市の“裏側”の現実を切り取った動画群。

スラムの子どもたち、診療所で黙って泣く老婆、焼けたアパートと手を繋いでいた姉妹。

冷たく、鋭利で、どこかやさしい視点の映像だった。


そして──あの目。


地下倉庫の炊き出し所で、初めて出会った少女。

誰とも交わらず、淡々とフードパックを配っていた。

痩せた手首、膝上までまくったジャージ、

それに似合わぬ、火花のような目。


彼女の名前は、高槻奈々。


「この都市、どこが“希望”なんだよ」

蓮が問うと、奈々は眉一つ動かさず答えた。


「それでも来たかった人がいる。だから私は、ここで怒ってる」


奈々は、地方の集落出身だった。

山に囲まれた小さな町で、彼女は祖母と母親と暮らしていた。

ある冬、山崩れが起きた。救助は来なかった。電波も電気もないまま数日が過ぎ、

母が肺炎で倒れ、祖母も衰弱した。

都市からの支援は「非効率」と判断され、切り捨てられた。


奈々だけが生き残った。


「選ばれなかった命だよ、私たち」

彼女は笑って言った。笑いながら泣いていた。


都市に来れば変われると思った。

努力すれば、役に立てば、誰かに“人間”として扱ってもらえると信じた。


けれど、現実は違った。


通学には“教育ポイント”、

病院には“健康ポイント”、

家を借りるには“定住スコア”が必要だった。


「ここ、監獄と一緒だよ」

「でもね、誰も怒らないの。“頑張りが足りないだけ”って言うから」


だから彼女は怒った。叫んだ。暴れた。

怒りを武器に変えたのではない。

怒りを、ただの存在証明として掲げただけだった。


蓮は、彼女の部屋を初めて訪れた。


六畳ほどのプレハブ。

壁にはモニターが三台、バッテリーが二つ、空のスープ缶が積まれている。

食べることより、伝えることを選んだ生活だった。


「MIR△って名前、意味あるのか?」


「……“Mirage(蜃気楼)”の略」

「誰かにとっては希望だけど、近づいたら消える。

 でも、その幻を見たってことが、誰かの勇気になるかもしれないから」


蓮は、言葉を失った。


彼女の怒りは破壊じゃなかった。

無関心に抗う、かすかな祈りだった。


ふと、モニターの一つに、蓮の故郷・宇和島の古い映像が映った。

それは、奈々が集めた過去の地方アーカイブだった。


「これ、どこで……」


「あなたがその町出身じゃないかって、ちょっと思ってた」

「電波、まだ届いてるよ。微弱だけど。……たぶん、誰かが生きてる」


壁の向こう。

都市の外。

名前を失った町が、かすかに、確かに、生きていた。


蓮は奈々に言った。


「一緒に行こう。あの町に」


奈々は返事をしなかった。

ただ、少しだけ微笑んだ。


その夜、蓮は初めて彼女の怒りの意味を知った。


それは、自分が捨てかけていたもの――

“まだ、生きていてもいい”という想いだった。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?