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第2話 社


舗装ほそうされた道は、とうの昔に闇に溶けて消えた。今はもう、月明かりすら拒む木々の合間をう、湿った獣道けものみちが続くだけだ。腐葉土ふようどの甘い匂いと、土の生々しい気配。それはまるで、山そのものの呼吸が、濃密な空気となって肺腑を満たしていくかのようだった。


一歩、また一歩と足を踏み出すたび、心臓が肋骨の裏でやかましく脈打つ。その音だけが、自分がまだこの世界の輪郭の内側にいることを証明しているようだった。


「はぁ……っ、はぁ……! おい、|輝流……! 少し、待てって……!」


ほとんど悲鳴に近い声が、背後で揺れる。振り返れば、|智哉が木の幹に両手をつき、ぜいぜいと苦しげに肩で息をしていた。その姿は、この山の深淵しんえんに呑まれまいと必死にもがく、小さな生き物に見えた。


「はぁ……情けないなぁ」


「うるせぇ! 元サッカー部のお前と、生粋の帰宅部を一緒にしてんじゃねぇ! 少しは気を遣え! 気を!」


「くだらないことで胸を張るなよ…」


智哉の叫び声すら、この深い静寂しじまに触れた瞬間、音もなく吸い込まれて消える。日暮れと共に急速に冷えていく空気が、汗ばんだ首筋を撫で、ぞくりと肌を粟立たせた。


ああ、そうか。


この感覚は、悪くない。色のない教室の椅子に沈み込み、ただ過ぎていく時間を殺すより、よほど、自分が「生きている」と感じられる。


「……早くしろよ。置いていくぞ」


そう短く告げて、再び斜面に向き直る。背後で「悪魔ー! 人でなしー!」という情けない声が聞こえたが、不思議と心は凪いでいた。


どれほどの時間、そうして登り続けたか。

木々の隙間から覗いていた空の色が、深い藍色あいいろに沈みきった頃、息を切らして最後の斜面を登りきった。

不意に木々の天井が途切れ、満天の星が、まるで音もなく降ってくるかのように目に飛び込んできた。


「……ぁ」


思わず、喉の奥で息が止まる。

街の喧騒も、その偽りの光も届かない山頂だからこそ許される、神々しいまでの夜空。天の川あまのがわが白くぼやけた光の帯となって空を横断し、手の届きそうなほど近くで、無数の星屑ほしくずが玻璃の粒のように瞬いていた。

流れ星が一つ、神様が気まぐれに空を引っ掻いた痕のように、音もなく夜の帳を切り裂いて消える。

噂に聞く不吉な山の姿とは、あまりに不釣り合いなほど、そこは静かで、美しい場所だった。


「……着いたみたいだな」


「あ、ああ……。すげぇ……けど、今の所、なんにもないな……」


隣で智哉が安堵あんどの息をらす。

その、時だった。

風が木々を揺らす音に混じって、何かが軋むような、微かな音が聞こえた気がした。

視線をめぐらせると、広場の中心に、闇よりもなお黒いシルエットがぽつんとたたずんでいる。

永い時間、誰にもかえりみられず、ただ風雨にその身を晒し続けてきた、小さなやしろだった。


「……うぅ……こ、こえ〜……! もう、降りようぜ?」


「いや、もう少し見ていく」


智哉の制止を振り切り、俺はまるで何かに引かれるように、ゆっくりと社に近づいた。スマホのライトが、その異様な姿を照らし出す。


瞬間、呼吸を忘れた。社の柱や壁に、黒ずんで文字の|滲んだ御札おふだが、隙間なくびっしりと張り付いている。それはまるで、この社に宿る何かの呻きうめきを、無数の言霊ことだまで無理やり塞いでいるかのようだった。


「な、なんだよ、これ……」


「お前んち、寺だろ。こういうの、何か聞かないのか?」


「俺、そういう才能、一欠片も無いみたいでよぉ……父ちゃんからは何も教えてもらえねぇんだ」


「……才能ゼロか」


「おい!! 少しはオブラートに包めよな!」


智哉の抗議も、どこか遠くに聞こえる。俺はただ、朽ちかけた社を見つめていた。


なぜだろう。この見捨てられた社の姿に、喉の奥がつんと詰まるような感覚を覚えた。らしくない。馬鹿げた感傷だ。そう思うのに、胸の奥に灯った小さな熾火のような感情から、どうしても目を逸らせなかった。


「……この社、少し掃除しよう」


自分でも、なぜこんな提案をしたのか分からない。だが、無性にそうしたくなった。


「……はっ?」


俺の唐突な言葉に、智哉ともちかが目を丸める。


「なんだよ、その顔」


「いや、お前がそんなこと言うなんて、太陽が西から昇るかと……」


「どうした?急に……」


「……ただの気まぐれだ。さっさとやろう」


それから俺たちは、まるで何かの儀式のように、無心で社を綺麗にした。絡みついていた雑草を引き抜き、分厚く積もった蜘蛛の巣を枝で払う。

やがて、分厚い埃の化粧を落とした社は、みすぼらしいながらも、どこか凛とした佇まいを取り戻し、静かに俺たちを見下ろしていた。


それは感謝か、それとも赦しゆるか。あるいは、もっと質の悪い何かの始まりだったのかもしれない。

ただ、そこには先程までの悍ましい空気とは違う、不思議なほどの安寧あんねいが、満天の星空の下で静かに満ちていくのを感じていた。


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