目次
ブックマーク
応援する
4
コメント
シェア
通報

第3話 謎の仏像


「……ふぅ。綺麗になったな」

社を見上げ、手に付いた最後の蜘蛛の巣を払いながら、俺は誰に言うでもなく呟いた。分厚い埃の化粧を落とした社は、満天の星の光を浴びて、どこか誇らしげに、静かにそこに佇んでいる。


「ああ……。心なしか、さっきまでの淀んだ空気が、嘘みたいに澄んでる気がするぜ」


智哉の声も、先程までの怯えた響きが消え、穏やかな安堵が滲んでいた。

風が、山の稜線を撫でる音がする。その音色ですら、どこか優しくなったように感じられた。


この不思議な静寂しじまの中で、ふと、疑問が湧いた。臆病なくせに、誰よりも真っ直ぐなこいつが、なぜ、この禁足地に俺を誘ったのだろうか。


「そういえば、智哉」


「ん?」


「なんでお前、そんなに怖がりなのに、こんな山で肝試しなんてやろうと思ったんだ?」


「普通の心霊スポットならまだしも、ここはそういった所とはレベルが違うだろ」


俺の問いに、智哉は少しだけ黙り込んだ。その視線は、夜空の星屑ほしくずの海を彷徨い、やがて、自嘲と、ほんの少しの期待が混じり合った、歪な笑みをその口元に浮かべる。


「……俺はさ、輝流が言ったように、才能ゼロだから」


「……」


「親父みたいに霊は視えないし、仏様の難しい話とか、全く分からなくてさ。……だから、ここに来て、そういうヤバい体験の一つでもすれば、もしかしたら……何かが、開花するんじゃないかって。そう、思ったんだよ」


その言葉が、喉の奥に張り付いたガラスの破片のように、息をするたび鈍い痛みとなって胸に広がった。自分にないものを渇望かつぼうし、自分ではない誰かになろうとするその姿が、ひどく危うく見えたから。


「……馬鹿か、お前は」


「え……」


「霊能力者の才能がないなら、別の才能を信じろよ。人には、得手不得手がある。光の当たる場所が、それぞれ違うだけだ。日陰でしか咲けない花があるだろ。無理して日に当たったら、お前みたいなのはすぐ干からびるぞ」


それは、俺の偽らざる本心だった。


「おぉぉぉぉ〜……輝流ぅぅ……! お前、やっぱ世界一良い奴だぁぁぁ……!!」


感極まった智哉が、両手を広げて突進してくる。俺はそれを、ひらりと半身を引いて躱した。


「おま、避けんなって!」


「男と抱き合う趣味はない」


「なんだよそれ! じゃあ穂乃果ちゃんならいいのかよ!?」


穂乃果ほのか


その名前を心の中で転がすと、春の陽だまりひだまりのような、どこか気恥ずかしい温かさが胸に広がる気がした。


「……ああ。穂乃果は、可愛いしな」


「くそう……!! 俺もあんな可愛い子と|縁を結びてぇ……!」


本気で嘆く智哉の横で、俺は夜空を見上げた。


「……いい相手が、見つかるといいなー」


「棒読みっ!!!」


智哉のツッコミが、静かな山頂に響く。二人の笑い声が、満天の星空に、そっと溶けていった。


***


「……よし、十九時半だ。そろそろ下りるか」

俺がそう呟くと、智哉は名残惜しそうに一度だけ星空を見上げてから、こくりと頷いた。山頂を支配していた不思議な安寧に背を向け、俺たちは再び、深く濃い森の闇へと足を踏み入れる。


下りは、登りとは違う種類の緊張感があった。自分の全体重が爪先にかかり、落ち葉に隠れた石や木の根に、何度も足を取られそうになる。スマホのライトが照らす円の中だけが、かろうじて俺たちの世界だった。


その、時だった。


ライトの光が、道端に佇む黒い影を不意に捉えた。


「……?」


それは、苔むした石仏せきぶつだった。首を少し傾げ、どこか悲しむような顔で、闇の中にじっと座している。

そして、一つだけではなかった。

歩を進めるたびに、次々と闇の中から仏たちが姿を現す。道の両脇を、まるで俺たちを見送るかのように、おびただしい数の石仏が、弔いの行列のように並んでいた。


「なぁ……」


「うぉ!! い、いきなり話しかけんなよ……!」


「…ビビりめ」


「うっせぇ! 誰だってビビるだろ、こんなの!」


「……なんでこんなに仏像があるのか、聞いたことあるか?」


「知るかよ! そもそも普段この山に入る奴なんていねぇだろ! 俺も初めて見たぜ……」


智哉の声が、恐怖に上擦っている。それも無理はない。ライトの光が揺れるたび、石仏たちの表情が、まるで生きているかのように変化して見えるのだ。


怒りに顔を歪ませた憤怒相ふんぬそう。頬に涙の跡が刻まれた慈悲相じひそう。何かを悔やむかのように、固く目を閉じた顔。

それはまるで、この山で還れなくなった者たちの、永い無念を石に刻みつけたかのようだった。


ん……?


今、道の中央に佇む、ひときわ大きな地蔵と、確かに目が合った、気がした。

他の石仏が無数の苔に覆われているのに、その地蔵だけが、まるで真新しいかのように滑らかな肌をしている。ライトの光の中心で、その石の瞳が、ぬらりと湿った光を帯びた気がした。

心臓が、肋骨の裏で一度だけ、冷たく跳ねる。

粘つくような視線が、首筋に絡みついてくる。


「……仏像と目が合う怪談とかって、あるのか?」


「おまっ!!!! マジでふざけんなよ!? こんなおっかねぇ場所で怪談話とか正気か!? ぶっ飛ばすぞ!?」


「……キレすぎだろ。気になっただけだ」


「いま俺は極力こいつらを見ないようにしてんだぞ!! マジでやめろ!!」


はぁ……。智哉の剣幕に、俺は内心でため息をついた。本当は、俺自身も感じていたのだ。あの視線に射抜かれた瞬間から、背中にまとわりつくような、冷たい何かの存在を。


それから数十分、俺たちは無言で山を下り続けた。

ようやく麓の明かりが見え始め、鳥居のシルエットが闇に浮かんだ、その時。


「くぅぅぅぅぅん……」


獣の鳴き声のような、か細い声が、どこからか聞こえた。


「ひっ……! な、なんか聞こえなかったか……!?」


「……ああ。確かに聞こえたな」


「何でお前そんなに冷静なんだよ!!! お前がこえーよ!!」


智哉がパニックに陥る。

そして、今度はもっとはっきりと、声が響いた。

まるで、すぐ耳元で囁くかのように。


「智…………哉ぁ……くぅ……ん……」


「う、うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」


絶叫と共に、智哉が踵を返す。今下りてきたばかりの闇の中へと猛然と駆け出し、その背中はあっという間に闇に呑まれていった。

残された静寂の中、俺はただ、静かにため息をつく。


「……はぁ。悪ふざけがすぎるぞ、穂乃果」


俺の言葉に応えるように、鳥居の影から、くすくすと笑い声が聞こえる。


「えへへ」


やがて、その闇の中から、月明かりに照らされて、見慣れた少女がひょっこりと姿を現した。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?