「……ふぅ。綺麗になったな」
社を見上げ、手に付いた最後の蜘蛛の巣を払いながら、俺は誰に言うでもなく呟いた。分厚い埃の化粧を落とした社は、満天の星の光を浴びて、どこか誇らしげに、静かにそこに佇んでいる。
「ああ……。心なしか、さっきまでの淀んだ空気が、嘘みたいに澄んでる気がするぜ」
智哉の声も、先程までの怯えた響きが消え、穏やかな安堵が滲んでいた。
風が、山の稜線を撫でる音がする。その音色ですら、どこか優しくなったように感じられた。
この不思議な
「そういえば、智哉」
「ん?」
「なんでお前、そんなに怖がりなのに、こんな山で肝試しなんてやろうと思ったんだ?」
「普通の心霊スポットならまだしも、ここはそういった所とはレベルが違うだろ」
俺の問いに、智哉は少しだけ黙り込んだ。その視線は、夜空の
「……俺はさ、輝流が言ったように、才能ゼロだから」
「……」
「親父みたいに霊は視えないし、仏様の難しい話とか、全く分からなくてさ。……だから、ここに来て、そういうヤバい体験の一つでもすれば、もしかしたら……何かが、開花するんじゃないかって。そう、思ったんだよ」
その言葉が、喉の奥に張り付いたガラスの破片のように、息をするたび鈍い痛みとなって胸に広がった。自分にないものを
「……馬鹿か、お前は」
「え……」
「霊能力者の才能がないなら、別の才能を信じろよ。人には、得手不得手がある。光の当たる場所が、それぞれ違うだけだ。日陰でしか咲けない花があるだろ。無理して日に当たったら、お前みたいなのはすぐ干からびるぞ」
それは、俺の偽らざる本心だった。
「おぉぉぉぉ〜……輝流ぅぅ……! お前、やっぱ世界一良い奴だぁぁぁ……!!」
感極まった智哉が、両手を広げて突進してくる。俺はそれを、ひらりと半身を引いて躱した。
「おま、避けんなって!」
「男と抱き合う趣味はない」
「なんだよそれ! じゃあ穂乃果ちゃんならいいのかよ!?」
その名前を心の中で転がすと、春の
「……ああ。穂乃果は、可愛いしな」
「くそう……!! 俺もあんな可愛い子と|縁を結びてぇ……!」
本気で嘆く智哉の横で、俺は夜空を見上げた。
「……いい相手が、見つかるといいなー」
「棒読みっ!!!」
智哉のツッコミが、静かな山頂に響く。二人の笑い声が、満天の星空に、そっと溶けていった。
***
「……よし、十九時半だ。そろそろ下りるか」
俺がそう呟くと、智哉は名残惜しそうに一度だけ星空を見上げてから、こくりと頷いた。山頂を支配していた不思議な安寧に背を向け、俺たちは再び、深く濃い森の闇へと足を踏み入れる。
下りは、登りとは違う種類の緊張感があった。自分の全体重が爪先にかかり、落ち葉に隠れた石や木の根に、何度も足を取られそうになる。スマホのライトが照らす円の中だけが、かろうじて俺たちの世界だった。
その、時だった。
ライトの光が、道端に佇む黒い影を不意に捉えた。
「……?」
それは、苔むした
そして、一つだけではなかった。
歩を進めるたびに、次々と闇の中から仏たちが姿を現す。道の両脇を、まるで俺たちを見送るかのように、おびただしい数の石仏が、弔いの行列のように並んでいた。
「なぁ……」
「うぉ!! い、いきなり話しかけんなよ……!」
「…ビビりめ」
「うっせぇ! 誰だってビビるだろ、こんなの!」
「……なんでこんなに仏像があるのか、聞いたことあるか?」
「知るかよ! そもそも普段この山に入る奴なんていねぇだろ! 俺も初めて見たぜ……」
智哉の声が、恐怖に上擦っている。それも無理はない。ライトの光が揺れるたび、石仏たちの表情が、まるで生きているかのように変化して見えるのだ。
怒りに顔を歪ませた
それはまるで、この山で還れなくなった者たちの、永い無念を石に刻みつけたかのようだった。
ん……?
今、道の中央に佇む、ひときわ大きな地蔵と、確かに目が合った、気がした。
他の石仏が無数の苔に覆われているのに、その地蔵だけが、まるで真新しいかのように滑らかな肌をしている。ライトの光の中心で、その石の瞳が、ぬらりと湿った光を帯びた気がした。
心臓が、肋骨の裏で一度だけ、冷たく跳ねる。
粘つくような視線が、首筋に絡みついてくる。
「……仏像と目が合う怪談とかって、あるのか?」
「おまっ!!!! マジでふざけんなよ!? こんなおっかねぇ場所で怪談話とか正気か!? ぶっ飛ばすぞ!?」
「……キレすぎだろ。気になっただけだ」
「いま俺は極力こいつらを見ないようにしてんだぞ!! マジでやめろ!!」
はぁ……。智哉の剣幕に、俺は内心でため息をついた。本当は、俺自身も感じていたのだ。あの視線に射抜かれた瞬間から、背中にまとわりつくような、冷たい何かの存在を。
それから数十分、俺たちは無言で山を下り続けた。
ようやく麓の明かりが見え始め、鳥居のシルエットが闇に浮かんだ、その時。
「くぅぅぅぅぅん……」
獣の鳴き声のような、か細い声が、どこからか聞こえた。
「ひっ……! な、なんか聞こえなかったか……!?」
「……ああ。確かに聞こえたな」
「何でお前そんなに冷静なんだよ!!! お前がこえーよ!!」
智哉がパニックに陥る。
そして、今度はもっとはっきりと、声が響いた。
まるで、すぐ耳元で囁くかのように。
「智…………哉ぁ……くぅ……ん……」
「う、うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
絶叫と共に、智哉が踵を返す。今下りてきたばかりの闇の中へと猛然と駆け出し、その背中はあっという間に闇に呑まれていった。
残された静寂の中、俺はただ、静かにため息をつく。
「……はぁ。悪ふざけがすぎるぞ、穂乃果」
俺の言葉に応えるように、鳥居の影から、くすくすと笑い声が聞こえる。
「えへへ」
やがて、その闇の中から、月明かりに照らされて、見慣れた少女がひょっこりと姿を現した。