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第5話 怪異


じり、じり、と。

脳髄を直接焼くかのような|蝉時雨が、窓の外から絶え間なく降り注いでいる。熱を帯びた空気にチョークの粉が混じり合い、汗ばんだ腕が机のニスに張り付く。思考も、身体も、教室に澱むこの気怠さの中にゆっくりと溶けていく。


あぁ……暑い。


ほんとうに、この季節は嫌いだ。

机の上に突伏し、意識を飛ばしかけていた俺の頭上に、不意にいくつかの影が落ちた。


浅生あさい〜! 悪い……! 今日、サッカーの応援頼めねぇかなぁ……!」


汗を光らせたサッカー部の主将の声。それに被さるように、別の声が響く。


「おい! この間も浅生に来てもらっただろ! 今日はうちの練習試合だ、こっちが先約だ!」


野球部の主将が、俺という駒を挟んで睨み合っている。


「頼むって! 野球部も大変なのは分かるけど、こっちはマジで人が足りてないんだ! キーパーが熱中症で倒れたんだよ!」


サッカー部主将の切実な声に、野球部の主将がぐっと言葉を詰まらせる。


「……ったく、しょうがねぇな。今回だけだからな」


「サンキュ!! 助かる!」


その熱量が、この茹だるような暑さの中で、ひどく億劫だった。


「……おい。俺の意思はどこにいったんだ」


俺が気怠く顔を上げると、二人が悪びれもなく笑った。


「お前はいつも気だるそうだけど、なんだかんだ言って、最後は手伝ってくれるからな」


「そうそう!」


はぁ……。返す言葉もない。


期待されることの面倒さと、それを断れない自分の性分しょうぶんに、うんざりする。


「……わかったよ。サッカー部な?」


「おう! 頼むぜ!」


嵐のように、二人は去っていった。その喧騒が消えた机の前に、ひょっこりと智哉が顔を出す。


「相変わらず人気者だねぇ、輝流は」


「……うるさいぞ。誰もこんな人気は望んじゃいない。


「まぁまぁ、いいじゃねぇか! じゃ、俺は先に帰るんで!」


「おい、帰宅部」


俺は、帰ろうとする智哉の肩を掴んだ。


「お前も来いよ。体力作りのいい機会だろ?」


すると智哉は、まるで世界の終わりでも見るかのような顔で、ぶんぶんと首を横に振った。


「馬鹿野郎! 俺が応援なんて行ったら、呪いでチームを大敗させるぜ!?」


胸を張って言うことではない。だが、本当に有り得そうなのが、こいつの恐ろしいところだ。絶望を知り尽くしたその面構えが、違う。


「はぁ……。お前じゃ戦力にならないか」


「おい! 言葉を選べ! 言葉を!!」


「……下手くそ、だったもんな」


「……!!」


立ち上がった俺の背中に、智哉がぽつりと呟いた。


「右足、気をつけろよ」


「……おう」


その言葉に、右足の古傷が、一瞬だけうずいた気がした。


***


結果から言えば、俺はグラウンドを駆け、相手チームから二点を奪った。

身体が憶えている。ボールを支配する感覚。敵を抜き去る瞬間の高揚。だが、心のどこかで、ひどく冷めている自分がいる。


それが決定打となり、俺がかつて所属していたチームは、無事に勝利を収めた。


「ひゅー! 流石だな、浅生!」


チームメイトたちが肩を叩いてくる。その熱気が、どこか他人事のように感じられた。汗を拭い、俺はさっさと帰る準備を始める。


「おい! 勝ったんだから打ち上げ行くぞ! お前も主役だろ!」


主将が快活に笑いながら、俺の腕を掴んだ。


「……、悪いけどパス。俺はもう、サッカー部じゃないからな」


俺の言葉に、周囲の喧騒が一瞬だけ、ぴたりと止まる。掴まれた腕を、そっと振り払った。

気まずい沈黙の中、主将が真剣な眼差しを向けてくる。


「……浅生。お前の場所は、いつでも残ってる。気が向いたら……帰ってこいよ」


「ああ。気が、向いたらな」


その言葉に永遠に来ない未来の色を乗せて、俺は一人、過去になったはずのグラウンドを後にした。


***


日が落ち切った田舎道は、驚くほど闇が深い。等間隔に並ぶ街灯も、その光は弱々しく、まるで闇に喰われかけているかのようだ。

道端に、ぽつんと自販機が佇んでいる。その蛍光灯が、ちか、ちか、と不規則に点滅を繰り返していた。


不意に、視線を感じた。

まるで闇に縫い付けられるような、粘つくような感覚。


俺は、ゆっくりと後ろを振り返る。


なんだ、あれは。

道の向こう、街灯の頼りない光の中に、|赤い服を着た女が、じっと、こちらを見ている。遠いはずなのに、その顔の凹凸までが見えるような、異常な感覚。


俺は一瞥いちべつすると、何も見なかったかのように、先程と変わらないペースで歩き出した。ポケットの中、あの黒い石が、氷のように冷たくなっている。


こつ……

べちゃ……


すぐ後ろから、水に濡れた裸足で地面を擦るような、湿った水音が聞こえる。まるで、水底から上がってきたばかりのような。

俺が一歩進むと、その|足音も、同じ間隔で、一つ響く。


こつ……

べちゃ……

こつ……

べちゃ……


俺は、足を止めた。

すると、背後の水音も、ぴたりと止まる。


(……もしかして、これがいわゆる、幽霊ってやつか?)


恐怖は、なかった。


むしろ、この退屈たいくつな日常に差し込んだ、初めての亀裂きれつに。


心の底で、冷たい興奮が、静かに芽生えるのを感じていた。

変質者か、本物の怪異か。


どちらにせよ──。


口の端が、勝手に吊り上がるのを感じた。

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