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第6話 始まり


『なんで……私が……』


背後で響いた声は、今にも泣き出しそうなほど悲痛に震えていた。

間違いない。これは、この世の者の声じゃない。音の響き方が、空気を震わせるのではなく、脳の柔らかい部分を、冷たいインクが汚していくように直接染み込んでくる。


俺はその声に耳を傾けながら、ただ、同じ速度で歩き続ける。


こつ

べちゃ

こつ

べちゃ


俺の靴音と、背後の水音。二つの音は、まるで連弾れんだんのように、完璧な|間隔を保って夜道に響く。


『痛い……辛い……もう……解放されたい……ぃ』


ガラスが砕けるような、悲痛な哀願あいがん


その声を聞いた直後、俺は、衝動的に振り返っていた。


──なのに。


そこには、誰もいなかった。

音も気配も完全に消え、ただ生ぬるい夜風が、俺の頬を撫でていくだけ。


「……?」


だが、ソレ・・が確かにそこに居たという痕跡こんせきだけが、アスファルトの上に残っていた。まるで、咲いては枯れた彼岸花のように、一瞬だけ紅い残像が揺らめき、そして消えた。


***


次の日の昼休み。


蝉時雨が降り注ぐ教室の喧騒の中で、俺は昨夜の出来事を、智哉と穂乃果に話していた。


「うぅ……! お、お、お、お前、そんな状況で振り返ったのかよ……」


「そ、それは流石に私も怖くて出来ないかも……」


智哉は顔を青くし、穂乃果は心配そうに眉を寄せる。その反応が、ひどく当たり前で、正しいものに思えた。


「……幽霊だって、元は生きた人間だろ。だから、別に怖いとか、そういう感情は湧かなかった」


「お前……うちの寺の誰より霊媒師れいばいしに向いてるんじゃねぇか?」


「確かに! 普通、そんな簡単に割り切れないよ?」


二人の言葉を聞きながら、俺はやはりどこかが壊れているのだと、嫌なほどに実感する。この恐怖への共感の欠如が、俺と世界の間に、薄いまくを一枚へだてているかのようだった。


「うーん……その女の人の声を聞いて、本当に、怖さを感じなかったの?」


穂乃果が、俺の瞳を覗き込むように問う。


「ああ……。どっちかっていうと、何がそんなに辛いのか、その理由が引っかかったくらいだ」


怖い、という感情より、なぜ彼女はあんなにも苦ししんでいるのか。その問いだけが、まるで胸に刺さった棘のように、今も鈍く痛み続けている。


「浅生くんはさ、きっと、その人を助けたいんじゃないかな?」


俺が……? 見ず知らずの、幽霊ひとを?


「……それは違うだろ。相手は知らない誰かだ。そんな感情にはならない」


「ううん。私は、浅生くんが本当はすごく優しいの、知ってるから」


「そうだなぁ。口は悪いし、気だるそうだけど、お前が良い奴なのは俺も保証するぜ!」


買いかぶりだ。俺は、そんな人間じゃない。


そう思った、その時だった。


「ねぇ浅生くん。一度、その女性のこと、調べてみない?」


穂乃果の言葉に、不意に、 心臓が跳ねた。

色褪せた 退屈な日常に、初めて鮮やかな色が落とされたような、未知への誘いいざな


「……本気か?」


「うん。きっと、浅生くんはその霊の人のことが、気になってるんだよ」


助けたい、という言葉には実感が湧かなかった。

だが、気になる、というのなら。それは、間違いなくそうだ。


俺は、あの赤い服の女が、気になっている。


「それに、なんで急に浅生くんにが見えるようになったのか、それも気になるしね。私、過去に起きた事件とか調べるの、得意だから。おじいちゃんの資料に何かあるかも。力になれるよ」


「お、おいおい……まじかよ……なんか、とんでもない方向に話が行ってねぇか……?」


智哉が狼狽えるのを尻目に、俺は決断した。


「わかった。一度、詳しく調べてみよう」


「うん!」


「智哉は……混ざらなくてもいいぞ」


少しだけ意地悪くそう告げると、智哉は顔をひきつらせた。


「お前なぁ……! お前らがそんなことをするって話を聞いたら、引き下がれるわけないだろ……!」


「そうだよ〜。あんまり智哉君のこと、虐めちゃダメだぞっ」


「……穂乃果、それをお前が言うなよ」


「うん。それは……そうだな」


「え〜!?」


こうして、俺たちの夏は、もう二度と元には戻れない場所へと、静かに舵を切った。


奇妙で、そして後戻りのできない探求が、静かに幕を開けたのだ。

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