『なんで……私が……』
背後で響いた声は、今にも泣き出しそうなほど悲痛に震えていた。
間違いない。これは、この世の者の声じゃない。音の響き方が、空気を震わせるのではなく、脳の柔らかい部分を、冷たいインクが汚していくように直接染み込んでくる。
俺はその声に耳を傾けながら、ただ、同じ速度で歩き続ける。
こつ
べちゃ
こつ
べちゃ
俺の靴音と、背後の水音。二つの音は、まるで
『痛い……辛い……もう……解放されたい……ぃ』
ガラスが砕けるような、悲痛な
その声を聞いた直後、俺は、衝動的に振り返っていた。
──なのに。
そこには、誰もいなかった。
音も気配も完全に消え、ただ生ぬるい夜風が、俺の頬を撫でていくだけ。
「……?」
だが、
***
次の日の昼休み。
蝉時雨が降り注ぐ教室の喧騒の中で、俺は昨夜の出来事を、智哉と穂乃果に話していた。
「うぅ……! お、お、お、お前、そんな状況で振り返ったのかよ……」
「そ、それは流石に私も怖くて出来ないかも……」
智哉は顔を青くし、穂乃果は心配そうに眉を寄せる。その反応が、ひどく当たり前で、正しいものに思えた。
「……幽霊だって、元は生きた人間だろ。だから、別に怖いとか、そういう感情は湧かなかった」
「お前……うちの寺の誰より
「確かに! 普通、そんな簡単に割り切れないよ?」
二人の言葉を聞きながら、俺はやはりどこかが壊れているのだと、嫌なほどに実感する。この恐怖への共感の欠如が、俺と世界の間に、薄い
「うーん……その女の人の声を聞いて、本当に、怖さを感じなかったの?」
穂乃果が、俺の瞳を覗き込むように問う。
「ああ……。どっちかっていうと、何がそんなに辛いのか、その理由が引っかかったくらいだ」
怖い、という感情より、なぜ彼女はあんなにも苦ししんでいるのか。その問いだけが、まるで胸に刺さった棘のように、今も鈍く痛み続けている。
「浅生くんはさ、きっと、その人を助けたいんじゃないかな?」
俺が……? 見ず知らずの、
「……それは違うだろ。相手は知らない誰かだ。そんな感情にはならない」
「ううん。私は、浅生くんが本当はすごく優しいの、知ってるから」
「そうだなぁ。口は悪いし、気だるそうだけど、お前が良い奴なのは俺も保証するぜ!」
買いかぶりだ。俺は、そんな人間じゃない。
そう思った、その時だった。
「ねぇ浅生くん。一度、その女性のこと、調べてみない?」
穂乃果の言葉に、不意に、 心臓が跳ねた。
色褪せた 退屈な日常に、初めて鮮やかな色が落とされたような、未知への
「……本気か?」
「うん。きっと、浅生くんはその霊の人のことが、気になってるんだよ」
助けたい、という言葉には実感が湧かなかった。
だが、気になる、というのなら。それは、間違いなくそうだ。
俺は、あの赤い服の女が、気になっている。
「それに、なんで急に浅生くんにが見えるようになったのか、それも気になるしね。私、過去に起きた事件とか調べるの、得意だから。おじいちゃんの資料に何かあるかも。力になれるよ」
「お、おいおい……まじかよ……なんか、とんでもない方向に話が行ってねぇか……?」
智哉が狼狽えるのを尻目に、俺は決断した。
「わかった。一度、詳しく調べてみよう」
「うん!」
「智哉は……混ざらなくてもいいぞ」
少しだけ意地悪くそう告げると、智哉は顔をひきつらせた。
「お前なぁ……! お前らがそんなことをするって話を聞いたら、引き下がれるわけないだろ……!」
「そうだよ〜。あんまり智哉君のこと、虐めちゃダメだぞっ」
「……穂乃果、それをお前が言うなよ」
「うん。それは……そうだな」
「え〜!?」
こうして、俺たちの夏は、もう二度と元には戻れない場所へと、静かに舵を切った。
奇妙で、そして後戻りのできない探求が、静かに幕を開けたのだ。