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第7話 赤い服の女


茜色の光がアスファルトを長く伸ばし、世界の輪郭が曖昧に溶けていく時間。断末魔のような鴉の声が、空に吸い込まれて消えた。


「よしっと……私は準備完了だよ」


穂乃果が、これから始まる冒険に心を躍らせるかのように、ぱんと一つ手を叩いた。


「まず、輝流は、この辺りで女の人を見たんだよね?」


「……そうだ。丁度あの自販機の所辺りだった」


俺は昨日通り過ぎた、点滅する自販機を指さしてそう告げた。


「うぉぉ……そんな話を聞いてると……今にもその霊が見えるんじゃないかって……気が気じゃねえよ……」


身体をぶるぶると震わせながら、智哉が俺の後ろに隠れる。


「この辺りで起きた事件……は、っと……」


穂乃果の指が、スマホの画面を滑る。古い新聞記事のスキャンデータや、郷土史家のブログまで、慣れた手つきで次々とタブを開いていく。だが、数分後、彼女は困ったように首を傾げた。


「うーん……ネット上には特に、ないね。事故や事件の記録は、ここ数十年は一件も」


「手詰まりが早くないか……?」


「そうは言っても、本当にインターネット上には載ってないんだもん。もう少し、見てみるけど」


沈んでいく太陽と同じように、俺たちの高揚感もまた、ゆっくりと地平線の下に消えていくようだった。


「あ、そうだ。穂乃果、ついでに後でいいからこれも調べてくれないか?」


そう言って、俺はポケットからあの涙型の黒い石を取り出した。ポケットから出した途端、周囲の熱を吸い込むかのように、石の表面にじわりと水滴が滲む。

穂乃果の顔が怪訝なものになった。


「良いけど……なに? これ」


「先日、智哉と肝試しに行った帰りに、いつの間にかポケットに入ってた。多分だけど、社の掃除をした時に紛れたのかもしれねぇ」


「お前そんなもん持ち歩いてんのかよ……」


智哉の言葉より先に、穂乃果が目を丸くして叫んだ。


「輝流が……!? 社の掃除を……!?」


そんなに驚くことか……?


「ちなみに、実はこれ、一度落としたんだ。でも、いつの間にかポケットに戻ってた」


そう言い終えるより先に、二人は俺からさっと距離を置いていた。その視線が、まるで得体の知れない蟲でも見るかのように、俺の手の中の石に突き刺さる。


「そ、それほんと……?」


「捨てても戻ってくる……ってことか……?」


「ああ。智哉に押されて田んぼに落とした。でも、帰ったらまたポケットの中に入っててな」


「穂乃果ちゃん、これ、どう思う」


「うーん……怖いね……それに……」


穂乃果が、何かを思い出すように、眉をひそめる。


「これ、どこかで見た事がある気がするんだよねぇ……なんだろう……」


「俺もどこかで見たことある気がするんだが……」


脳裏の深い場所に引っかかった、忘れていた悪夢の断片のような感覚。二人がそう呟いた時、俺は話を本題に戻した。


「まぁ、今はそれよりあの女の人のことを調べようぜ」


それから俺たちは、陽が完全に落ちるまで、聞き込みや現場の調査を続けた。


***


夜の帳が、完全に町を覆い尽くす頃。


「流石に一日じゃ見つからないかぁ……」


穂乃果が、諦めたようにため息をついた。


「………そうだな」


「……少し、落ち込んでる?」


彼女の問いに、俺は少しだけ驚いた。


「穂乃果ちゃん、こいつはいつもこうだろ〜?」


「……いや。確かに、落ち込んでるのかもしれないな」


智哉が「ま、まじかよ」と目を見開く。退屈を憎んでいたはずの自分が、謎が解けないことに焦燥感を覚えている。その変化に、俺自身が一番戸い惑っていた。


「まぁ、私もおじいちゃんの資料でも見てみるね。そっちならなにか載ってるかもしれないから」


そんなやり取りをした、その時だった。


不意に、一際強い風が吹いた。

それは、この世の風ではなかったように感じられた。

鉄錆と、何か生き物が腐敗したような甘い匂いが混じった、吐き気を催すような悪臭。

生温く、そして、どこまでも血なまぐさい。

そんな鼻を突くような嫌な匂いが、俺たちの身体に、ねっとりと絡みついてきた。


「な、何だこの匂い……っ」


「……ほんとだ。なにか……臭うね」


えずく智哉の横で、穂乃果が顔をしかめて鼻を覆う。

古い鉄の匂いと、甘ったるい腐臭が混じり合った、臓腑を直接掴まれるような悪臭。


俺はこの匂いを知っていた。


「これは……多分、血の匂いだ」


そして、俺は気がついた。

他の二人にはまだ見えていない。だが、俺の目には、あの陽炎のように揺らめく空間の歪みの中心に、ぽつんと立つあかい点が、はっきりと見えていた。

昨日と、寸分違わぬ場所に。

あの女が、佇んでいる。


思考より先に、身体が動いていた。

あの時、聞けなかった『問い』の答えを、今ここで手に入れなければならない。

俺は駆けた。その女が佇む場所へと。


「ちょ、輝流!?」


「おいおい!! まじかよっ……!」


背後で響く二人の制止の声が、急速に遠ざかっていく。

女の背中は、すぐそこにあった。


「あの……すみません」


後ろ姿に、俺は話しかけた。

だが、反応はない。


なら、もう一度。


「すみません」


二度目の声が、スイッチだった。


まるで錆び付いたブリキの玩具のように、女はギ、ギ、ギ、と、骨と肉が無理に軋む音を立てて、振り返ろうとする。

首が、ありえない角度まで捻じれていく。

まるで、一度完全に壊れた人形を、無理やり動かしているかのようだ。

やがて、その顔が、俺と正面で向き合った。

最初に目に入ったのは、不自然に外側を向いた手の甲。折れた骨が、皮膚を突き破っている。

次いで、ありえない方向に折れ曲がった膝。

肌には、紫色をしたおびただしい数の死斑しはんが、禍々しい模様のように浮かび上がっていた。

そして、視線が顔へとたどり着いた時


──思考が、停止した。


そこにあるべき顔のパーツは、まるで粘土を叩き潰したかのように、原型を留めていなかった。

潰れた眼窩から零れ落ちそうな、濁ったガラス玉のような瞳だけが、虚ろに俺を捉えている。

これが、あの悲痛な声の主の、成れの果ての姿。

無惨、という言葉すら、生ぬるい。

これは、絶対的な絶望ぜつぼうの形だった。

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