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第8話 壊れてるのは……


恐怖ではなく、純粋な『問い』が口をついて出た。

「…………あなたは、なんでそんな姿になってしまったんですか」

しかし、女は答えてはくれない。ただ、濁った瞳で虚空を見つめている。

「……どうして、彷徨っているんですか?」

『ァ……ァ……ァァァ……』

意味をなさない、苦痛の音だけが漏れ聞こえる。

「ちょ、ちょっと!!! 輝流!! なにしてるの……! だ、誰と話してるの!?」

「おいおい……急にどうしたんだよ……!」

穂乃果と智哉の悲鳴のような声。二人の瞳は、俺の背後にある『無』を捉えている。俺だけが、この世界の理から外れた一点を視ている。


「……お前たちには、目の前にいるこの人が見えないのか?」


その俺の言葉に、二人の顔が真っ青になっていく。


「えっ……輝流……まさか、今、目の前にゆ、幽霊がいるの……?」


「ひ、ひっ…!!!」


「ああ……」


俺は、目の前の惨状を、検分するように、淡々と口にした。


「顔は潰れてて、多分目は見えてない。それに……ありとあらゆる関節が真逆に折れてる。……余程強い衝撃を受けたんだろうな」


智哉に至っては、もうガクガクと震え、声にならない喘ぎを漏らしている。


「輝流……そ、そんな説明は……いらないって……」


穂乃果の声が悲鳴に変わる。

その時だった。


『なんで……私が……ぁ……ぁ』


『なんで…! どうして……!! なんで私がァァァァァ……!!!!!』


『なんで…!!! なんでなんでなんでなんでぇぇぇぇぇぇぇぇぇえぇ!!!!!!!!』


女が、天に向かって絶叫した。

空気がガラスのように震え、耳鳴りと共に脳が圧迫されるような感覚。それは音というより、純粋な『苦痛』の波動だった。


「っ……」


隣で、智哉の身体がぐらりと揺れる。その鼻から、つ、と赤い血が垂れた。

っ……!まずい。これは、ただそこにいるだけの霊じゃない。


「穂乃果、智哉を連れて離れるぞ!」


「う、うん!」


俺は智哉の腕を肩に回し、駆け出した。背後から、穂乃果の必死の息遣いが聞こえる。大丈夫、ちゃんと付いてきている。


***


俺たちはすぐにその場を離れたが、女はあの場所から動くことはなかった。


「……智哉、大丈夫か?」


「あ……あぁ……悪ぃ……」


唇を紫色にして、智哉はかろうじて頷く。見るからに大丈夫ではなさそうだ。

「謝るなよ。俺が勝手にあの女の元へ行ったのが原因だな…。悪かった。これから気を付ける」


「ね、ねぇ、輝流」


不意に穂乃果が話しかけてくる。その声は、まだ恐怖に震えていた。


「さっきさ、あなたが女性の霊を見て……全身の関節が反対方向を向いてたって、言ったよね……」


「……ああ」


「私、その女の人の死因が、分かっちゃったかもしれない……」


「なんだって……?」


穂乃果の言葉が、アスファルトの道の上に、今はもうないはずの二本の鉄のレールを幻視させた。


「十年前の話なんだけど……あの辺りにはね、線路があったって、おじいちゃんから聞いたことがあるんだ」


「線路……」


「うん。でも、その線路はもう撤去されてる。理由は、そこで飛び込み自殺があまりにも多かったからだって……おじいちゃんの資料で読んだことがある」


「そうか…………」


「だから……その……全身が反対方向に折れてたって聞いて、その線路のことを思い出したんだ」


……なるほど。それなら、あれほど骨が折れ曲がっていたのも、顔が潰れてしまっていたのも、理解できる。

電車のスピードで、ぶつかったとしたら、あんなふうになってしまうだろう。

だが……気がかりな事がひとつ残っている。仮に飛び込み自殺だとして……。

なんで、あの女は 『なんで私が』と叫んでいたんだ?


普通、自殺ならそのような問いは出てこない筈だ。

原因は……他に何かあるのか……?

他殺……ただの事故……その線もあるかもしれない。

なんて、刑事めいた不釣り合いな事を考えていた。


「ね、ねぇ……」


穂乃果がおそるおそる、俺の顔を覗き込む。


「私、幽霊なんて目に見えないのに、輝流が駆け出して、そんな……事故にあったような見た目の女性がいるって聞いてね……すごく、怖くなっちゃったんだ」


彼女が感じているのは、幽霊への恐怖だけじゃない。俺という存在そのものへの、畏れだ。


「輝流は……本当に、怖くないの……?」


智哉の背中を擦りながら、穂乃果は不安そうに俺にそう尋ねてくる。


「ああ……。不思議な事に、恐怖は感じなかった。そんなことより、あの苦しそうな人をどうしたら解放できるか、そればっかり考えてた」


「輝流……本当に、強いね」


違う。

これは、強いんじゃない。

穂乃果たちが感じる恐怖。それこそが正常なんだ。

壊れているのは、こいつらじゃなくて──


──俺自身。


彼らのいる『正常』な世界と、俺のいるこの歪んだ世界の間には、決して越えることのできない透明な壁が存在する。

彼らの優しさが、その壁の厚さを、俺に嫌というほど自覚させた。

それがなんだか、ひどく、寂しく感じた。


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