恐怖ではなく、純粋な『問い』が口をついて出た。
「…………あなたは、なんでそんな姿になってしまったんですか」
しかし、女は答えてはくれない。ただ、濁った瞳で虚空を見つめている。
「……どうして、彷徨っているんですか?」
『ァ……ァ……ァァァ……』
意味をなさない、苦痛の音だけが漏れ聞こえる。
「ちょ、ちょっと!!! 輝流!! なにしてるの……! だ、誰と話してるの!?」
「おいおい……急にどうしたんだよ……!」
穂乃果と智哉の悲鳴のような声。二人の瞳は、俺の背後にある『無』を捉えている。俺だけが、この世界の理から外れた一点を視ている。
「……お前たちには、目の前にいるこの人が見えないのか?」
その俺の言葉に、二人の顔が真っ青になっていく。
「えっ……輝流……まさか、今、目の前にゆ、幽霊がいるの……?」
「ひ、ひっ…!!!」
「ああ……」
俺は、目の前の惨状を、検分するように、淡々と口にした。
「顔は潰れてて、多分目は見えてない。それに……ありとあらゆる関節が真逆に折れてる。……余程強い衝撃を受けたんだろうな」
智哉に至っては、もうガクガクと震え、声にならない喘ぎを漏らしている。
「輝流……そ、そんな説明は……いらないって……」
穂乃果の声が悲鳴に変わる。
その時だった。
『なんで……私が……ぁ……ぁ』
『なんで…! どうして……!! なんで私がァァァァァ……!!!!!』
『なんで…!!! なんでなんでなんでなんでぇぇぇぇぇぇぇぇぇえぇ!!!!!!!!』
女が、天に向かって絶叫した。
空気がガラスのように震え、耳鳴りと共に脳が圧迫されるような感覚。それは音というより、純粋な『苦痛』の波動だった。
「っ……」
隣で、智哉の身体がぐらりと揺れる。その鼻から、つ、と赤い血が垂れた。
っ……!まずい。これは、ただそこにいるだけの霊じゃない。
「穂乃果、智哉を連れて離れるぞ!」
「う、うん!」
俺は智哉の腕を肩に回し、駆け出した。背後から、穂乃果の必死の息遣いが聞こえる。大丈夫、ちゃんと付いてきている。
***
俺たちはすぐにその場を離れたが、女はあの場所から動くことはなかった。
「……智哉、大丈夫か?」
「あ……あぁ……悪ぃ……」
唇を紫色にして、智哉はかろうじて頷く。見るからに大丈夫ではなさそうだ。
「謝るなよ。俺が勝手にあの女の元へ行ったのが原因だな…。悪かった。これから気を付ける」
「ね、ねぇ、輝流」
不意に穂乃果が話しかけてくる。その声は、まだ恐怖に震えていた。
「さっきさ、あなたが女性の霊を見て……全身の関節が反対方向を向いてたって、言ったよね……」
「……ああ」
「私、その女の人の死因が、分かっちゃったかもしれない……」
「なんだって……?」
穂乃果の言葉が、アスファルトの道の上に、今はもうないはずの二本の鉄のレールを幻視させた。
「十年前の話なんだけど……あの辺りにはね、線路があったって、おじいちゃんから聞いたことがあるんだ」
「線路……」
「うん。でも、その線路はもう撤去されてる。理由は、そこで飛び込み自殺があまりにも多かったからだって……おじいちゃんの資料で読んだことがある」
「そうか…………」
「だから……その……全身が反対方向に折れてたって聞いて、その線路のことを思い出したんだ」
……なるほど。それなら、あれほど骨が折れ曲がっていたのも、顔が潰れてしまっていたのも、理解できる。
電車のスピードで、ぶつかったとしたら、あんなふうになってしまうだろう。
だが……気がかりな事がひとつ残っている。仮に飛び込み自殺だとして……。
なんで、あの女は 『なんで私が』と叫んでいたんだ?
普通、自殺ならそのような問いは出てこない筈だ。
原因は……他に何かあるのか……?
他殺……ただの事故……その線もあるかもしれない。
なんて、刑事めいた不釣り合いな事を考えていた。
「ね、ねぇ……」
穂乃果がおそるおそる、俺の顔を覗き込む。
「私、幽霊なんて目に見えないのに、輝流が駆け出して、そんな……事故にあったような見た目の女性がいるって聞いてね……すごく、怖くなっちゃったんだ」
彼女が感じているのは、幽霊への恐怖だけじゃない。俺という存在そのものへの、畏れだ。
「輝流は……本当に、怖くないの……?」
智哉の背中を擦りながら、穂乃果は不安そうに俺にそう尋ねてくる。
「ああ……。不思議な事に、恐怖は感じなかった。そんなことより、あの苦しそうな人をどうしたら解放できるか、そればっかり考えてた」
「輝流……本当に、強いね」
違う。
これは、強いんじゃない。
穂乃果たちが感じる恐怖。それこそが正常なんだ。
壊れているのは、こいつらじゃなくて──
──俺自身。
彼らのいる『正常』な世界と、俺のいるこの歪んだ世界の間には、決して越えることのできない透明な壁が存在する。
彼らの優しさが、その壁の厚さを、俺に嫌というほど自覚させた。
それがなんだか、ひどく、寂しく感じた。