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第9話 モノクロの世界で


街灯の光が作る小さな円の中で、重い沈黙が俺たち三人を支配していた。遠くで車の通り過ぎる音が、まるで別の世界の出来事のように聞こえる。


「……落ち着いたか?」


俺は隣で俯き、座り込んでいる智哉ともちかに、そう尋ねた。


「……あぁ。悪かったな、取り乱して」


「謝るな。……今回は、俺が悪い。お前を巻き込んだ。悪かった」


「流石に、実際に被害が出るとなると……危険すぎるよ……」


穂乃果ほのかが、心配そうに呟く。

その通りだ。現に智哉は鼻血を出し、今も唇を紫色にして、どこか具合が悪そうに見える。


俺は……


見ず知らずの人間を助けたいだなんて、そんな大層なことを思っているのか、自分でも分からない。


それでも。

あの絶望ぜつぼうの形を、あの場所から解放したいと……さらに強く思った。


仮に、十年前の踏切で亡くなったのだとしたら、彼女は十年もの間、あの苦しみを味わい続けているということだ。


そんなのは……間違っている。人の尊厳そんげんじゃない。


幸いにも、俺に恐怖心は何故かない。

だからこそ、これは、俺にしか出来ない事なのではないだろうか?

退屈を憎んでいたはずの俺が、自ら厄介事の中心に飛び込もうとしている。そんな、使命にも近いような感情が芽生えていることに、俺は気がついた。

驕りおごりかもしれない。

だが、それでも、この色褪せた世界で前を向くには、十分すぎる理由だった。


「ねぇ……輝流」


「なんだ?」


穂乃果が俺に目で合図をして、智哉に聞こえないよう、そっと声を潜めた。


「輝流……智哉くんは……この話からは、外した方がいいよね?」


そう、不安そうに穂乃果が言う。俺もそれが正解だと思った。

だが……それであいつは満足するのだろうか?

厄介事に首を突っ込む俺の隣には、いつもこいつがいた。

……いや、本当は、俺としても大人しく引き下がってくれた方が良いとさえ思っている。これ以上、こいつを危険な目に遭わせたくない。


それは穂乃果も同じだ。

……こいつも俺にとっては大切な幼馴染だから。


「な、なぁ……」


智哉が、震える声で俺たちを呼んだ。

「どうした?」


「輝流は……あの女の、後ろにいた……化け物を……見たか……?」


化け物……?

何を言ってるんだ……? 俺が見たのは、あの女、一人だけだ。

いや、待て。

こいつは今、なんて言った?

あの女の後ろにいた、と。


「智哉、お前……あの女が見えたのか?」


「あ、ああ……丁度、鼻血を出したくらいで……目の前が陽炎みたいに揺らめいて……だ、だんだんと、姿がハッキリと、恐ろしいあの姿が……見えてきたんだ……」


「な、なにそれ……!」


「そ、それで……女の背中に、黒い染みみたいなのが広がってて……その中に、人の顔が、何十個も、泥みたいに張り付いて……みんなこっちを……見てたんだよ……」


穂乃果が、ひっと息を呑むのが分かった。

智哉は、自分の父親が普段から見ている世界の、その地獄の入り口を、ほんの少しだけ覗いてしまったのだ。


「霊が見える父ちゃんは……こんな、おっかない世界を……ずっと、見てたのかよ……」


智哉の身体が、小刻みに震えだした。

それは、彼が今まで必死に目を逸らし続けてきた、すぐ隣にある世界の本当の姿だった。


「悪ぃ……」


智哉が、絞り出すように言った。


「俺は……俺は、やめとく……。あんなのを見るのは…無理だ……」


無理もない。

智哉は元々、怖がりな性格だ。

それが、あんなおぞましい姿の女を見たとなると、この反応が普通だ。


「……気にすんな。それが正しい判断だと思う。とりあえず、今日は帰ろう」


「……うん」


穂乃果も、小さく頷いた。

こうして、俺たちの『赤い服の女』の調査、一日目が終わりを告げた。

だが、謎は減るどころか、増えるばかりだ。

智哉だけが見て、俺が見えなかった『何か』。

顔が、沢山張り付いたような、化け物。

その存在が、俺たちの間に、そして俺自身の認識の中に、消えないとげのように突き刺さっていた。


***


二人を家まで送り届けた後、俺は頼りない街灯が作る光の点と点の間を、一人で歩いていた。

智哉と穂乃果の気配が消えた途端、世界から急に音がなくなったような錯覚に陥る。代わりに、りん、りんと澄んだ蟋蟀こおろぎの鳴き声が、夏の夜の静寂を際立たせていた。

物思いにふけるには、丁度いい夜だ。

そもそも、なんで俺に霊が見えるようになった?

俺には、霊感なんてものは元々なかったはずだ。この世ならざるものなど、テレビの中の作り話でしかなかった。

それが、なぜ突然、俺の目には見えざるものが映るようになったのか。そこが、一番大きな謎だ。


やはり……ポケットの中の、これか。

あの、黒い涙型の石。

それくらいしか、思い当たる節がない。

ふと、俺は辺りを見渡した。

近くで、ちか、ちか、と虫が集る街灯が不規則に点滅を繰り返している。その頼りない光の下に、まるで血の色を吸ったかのように、赤い木製のベンチがぽつんと置かれていた。


俺は、そこに吸い寄せられるように腰掛ける。

そして、おもむろにポケットへと手を突っ込んだ。

指先が、あの石に触れる。

ひんやりとした、というより、周囲の熱をすべて吸い込んでいくかのような、深淵の欠片のような冷たさ。その手触りを、確かに感じることができた。

俺は、ふうっと全身の力を抜き、夜の空気に息を溶かす。


智哉の震える声が、耳の奥でまだ響いている。

穂乃果の不安そうな瞳が、瞼の裏に焼き付いている。


──まだだ。


まだ、一日目が終わっただけだ。

たとえ一人になったとしても、俺はまた、あの女の元へと行く。

それは、使命感などという綺麗な言葉で飾れるものではないのかもしれない。

恐怖を感じない俺の、ただの自己満足か、あるいは危険な好奇心か。

だが、それでも。

それが、この単色モノクロの世界で。

俺が、はっきりと自分の意思で「やりたい」と願った、唯一の事だったから。

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