じりじりと肌を焼くような陽射しが、教室の窓ガラスを白く光らせている。外からは、空気を揺らすほどの蝉時雨。まるで世界の輪郭が、その音で溶けてしまいそうだった。
あぁ、また退屈な一日が始まる。
そんなことを考えていた俺の視界に、ひとつの空席が映り込む。いつもなら、馬鹿みたいにでかい声が聞こえてくるはずの、智哉の席だった。
昨日のアレが、よほど堪えたんだろうか。
机に頬杖をつきながら、ぼんやりとそんなことを思う。あいつのことだ、今頃部屋の隅で布団でも被っているのかもしれない。
「……何か、見舞いでも持っていくか」
誰に言うでもなく呟いた、その時だった。
「ねぇ、浅生くん」
ふわりと、シャンプーの匂いがした。すぐ隣の席の穂乃果が、俺の机を覗き込んでいる。
「どうした?」
「放課後、智哉くんに何か持って行ってあげない?」
……心でも読まれたかと思った。
「ああ、俺も考えてた。コンビニで適当に菓子でも買って、顔だけ見てくるか」
「うん! それがいいと思う!」
穂乃果は嬉しそうに頷くと、ふと真面目な顔つきになって声を潜めた。
「それで…ね。昨日二人が見たっていう、赤い服の女の人なんだけど…」
すっ、と目の前に差し出されたスマホの画面。そこに映っていたのは、一枚の古い写真だった。白いワンピースを着て、幸せそうに微笑む、知らない女。
「……この人、かもな」
喉の奥から、乾いた声が出た。
昨日見たあの顔は、ぐちゃぐちゃに潰れていて判別もつかなかった。けれど、この写真の女性が着ている服の形には、見覚えがあるような気がする。
俺が見たのは、赤。けれど、画面の中のそれは、白。
いや、あれは元々、白だったのかもしれない。何か、おびただしい量の液体を浴びて、ああなっただけで。
「名前は…」
俺は、写真の下に添えられた名前を、汗で湿った指先でなぞった。
──秋崎 叶(あきさき かなえ)
「秋崎…叶さん、か」
「うん。おじいちゃんの資料にあったんだけど、裕福な家庭の人だったみたい。…それでね、夏祭りの夜、恋人と一緒に出かけた帰り道で、踏切に飛び込んだんだって」
穂乃果の言葉に、窓の外の蝉の声が、一瞬遠のいた気がした。
「…恋人の、目の前でか?」
「うん…。その恋人さんも、叶さんに自殺するような素振りは全くなかったって、ひどく困惑してたみたい」
「そうか…。その人から、話は聞けないのか?」
そう尋ねると、穂乃果は痛ましげに眉を寄せた。
「…実はね。その恋人の方も、叶さんが亡くなった翌年に…同じように、命を絶ったんだって」
「……」
「その人の友人が、妙なことを証言してたって資料には書いてあった。『化け物が見える』『何かに引き寄せられる感覚がある』…そう、漏らしてたらしいよ」
これは……ただの自殺、なんだろうか。
得体の知れない何かが、人の命に絡みついている。腹の底が、じわりと冷えていくような感覚。
『なんで…なんで私が…ぁ……』
昨夜の、あの悲痛な声が脳内で反響する。
恐怖を感じない俺だからこそ、してやれることはないのか。
「…ここまで聞いて、浅井くんの気持ちは変わらない?」
心配そうに揺れる瞳が、俺を見つめている。
「ああ。変わらない。というか、俺くらいしかまともに動いてやれないだろ、こういうのは」
心臓が、静かに熱を帯びていく。昂り、というには静かで、けれど確かな熱だった。
その時、思考を断ち切るように、甲高い予鈴が鳴り響いた。現実への引き戻しを告げる、無機質な号令だ。穂乃果が慌てて自分の席に戻ると、入れ替わるように担任が教室へ入ってくる。退屈な一日が、ようやく幕を開けた。
***
授業が終わる頃には、あれだけうるさかった蝉の声も、どこか気だるげな響きに変わっていた。西陽が差し込む教室は、埃を金色にきらめかせている。
帰りの支度をしていると、また穂乃果が目の前に立った。
「ねぇ、浅井くん」
その呼び方に、俺は思わず動きを止めて、ため息をついた。
「…なあ。その『浅井くん』っての、やめないか」
「えっ……」
プライベートでは「輝流」、学校では「浅井くん」。彼女なりの線引きなのかもしれないが、呼ばれるたびに背中がむず痒くなる。
「…輝流でいいだろ」
「で、でも…昔は、輝流が嫌がったから…」
うっ、と喉が詰まる。
そういえば、そんなこともあったか。中学の頃だったか、クラスの連中にやけに囃し立てられて、鬱陶しくなった記憶がうっすらとある。
「…ああ、悪かった。ガキだったんだよ。今はもう気にする歳でもないだろ」
「ふふ、そうだね。すごく茶化されたもんね、あの時」
「だから、どっちかに統一してくれ」
穂乃果は、少し意地悪そうに笑った。
「えー、そこは『輝流って呼んで』って素直に言うところじゃないのかなぁ??」
「はぁ……分かったよ。輝流って、呼んでくれ」
「えへへ、うんっ!」
満面の笑みで頷く穂乃果。
こんなところを智哉が見たら、また面倒なことになりそうだな、と。俺はどこか他人事のように考えていた。