放課後の生ぬるい風が、汗ばんだ首筋を撫でていく。太陽は少しだけ西に傾き、アスファルトに俺たちの長い影を落としていた。遠くからは、運動部の掛け声と、一日中鳴き続けた蝉の、どこか疲れたような声が聞こえてくる。
「ねぇ輝流」
「ん?なんだ穂乃果」
隣を歩く穂乃果が、ふと足を止めた。つられて俺も立ち止まる。
「この辺りがね、秋崎叶さんのお家があった場所なんだよ」
その声は、やけに静かだった。
「……なに?この辺りが?」
視線を巡らせても、見えるのはありふれた住宅街の風景だけだ。穂乃果は俺の返事を待たずに、どこか楽しんですらいるような横顔で続ける。
「うん。詳しい位置までは流石にわからないけど…探してみる? ちなみに、茶色い屋根に三階建ての、昔ながらの大きなお家だって。」
「そうおじいちゃんの資料に書いてあった」
……やっぱりか。俺が「行く」と返事をすることを、こいつはとっくに見越していたらしい。
そしてなにより、おじいさんの情報力がいちばん怖い。
「……はぁ。助かるよ」
呆れたような、それでいて感心したような息が漏れた。
「えへへ、いいえ!それじゃ、いこ!」
穂乃果は、してやったりとでも言いたげに笑った。
***
住宅街の細い路地を抜け、視界が拓ける。見渡す限りの青々とした田んぼが、夏の匂いを濃くしていた。
そこに、ぽつんと。まるで世界から忘れられることを望むように、一軒の家が建っていた。黒ずんだ茶色の屋根。三階建ての、古びた家。
「……穂乃果、これじゃないか?」
隣で、穂乃果が息を呑む音が聞こえた。俺のシャツの袖を、小さな手がきゅっと掴む。
一目で、廃墟だと分かった。壁のあちこちに黒い染みのような蔦が絡みつき、割れた窓ガラスが空虚な眼窩のようにこちらを見ている。人の営みが消えた建物は、こんなにも早く朽ちていくものだろうか。鼻につくのは、湿った土と黴の匂い。かつてここにあったはずの、生活の匂いなんてものは、欠片も残っていないようだった。
「…秋崎さんのご両親は?」
俺は、祖父の知恵を借りてすっかり物知りになった穂乃果に尋ねた。
「うーん…」
歯切れの悪い返事。何かを知っている人間のそれだった。
「なんだよ、その反応は」
「…ご家族の方も、不審な亡くなり方をしてるみたいなんだよね」
「それも…お父さんもお母さんも…そのどちらとも…」
おいおい、マジかよ……。
本人は自殺。恋人も翌年に後追い自殺。挙句の果てに、家族まで不審死?
先日まで非科学的なものを信じていなかった俺でさえ、ここまで不幸が重なると、何か見えない力が働いているとしか思えなかった。
「ねぇ輝流…やっぱり、やめない…? 普通じゃないよ、こんなの…」
穂乃果の声が、微かに震えている。その通りだ。普通じゃない。
だが、俺の心臓は、嫌な音ではなく、どこか期待するような静かなリズムで脈打っていた。恐怖よりも先に、未知への好奇心が鎌首をもたげる。我ながら、変な性分だと思う。
「穂乃果」
「な、なに?」
「お前はここで待ってろ。俺は、中を見てくる」
突き放すような物言いになったのは、自覚している。これは俺個人の、ただのわがままだ。こいつを巻き込むわけにはいかない。
「危ないのは分かってる。だから、お前は先に帰れ」
「っ…そんなの…」
穂乃果が、俯いたまま何かを呟いた。次の瞬間、叫び声が鼓膜を叩いた。
「輝流のバカぁ!!!!」
ゴッ、と鈍い衝撃。左足のスネに、焼けるような痛みが走った。
「いっ、痛ってぇな!!?」
見れば、穂乃果が肩をぷるぷると震わせ、涙の膜が張った瞳で俺を睨みつけていた。
「輝流が行くなら、私が行かないわけないでしょ!!!」
「なんでだよ!?」
「輝流に何かあったら、嫌だもん!」
その言葉に、心臓が大きく跳ねた。
ああ、そうか。俺がこいつを大切に思うのと同じくらい、こいつも俺を。その当たり前の事実が、蹴られたスネの痛みと一緒に、じんわりと染み込んでくる。
「…輝流は、約束覚えてないの?」
「…約束?」
「私を、お嫁さんにするって約束!」
不意打ちだった。思考が、一瞬停止する。
なんだって? 嫁?
頭の中に散らばる記憶の断片を、必死にかき集める。だが、そんな約束をした覚えは、どこにもなかった。
…俺の記憶は、ところどころが虫食いのように抜け落ちている。病気や物忘れとは、何かが違う。もっと根本的な、理由の分からない欠落。
「………」
「輝流…?」
俺が黙り込んだことで、穂乃果の顔が不安に曇る。その表情を見て、答えは決まった。
俺は、おもむろに穂乃果の頭に手を置き、子供をあやすように軽く撫でた。
「ああ。大丈夫だ。覚えてるよ」
口から滑り出たのは、我ながら驚くほど、スムーズな嘘だった。
こいつを傷つけたくない。そして、何より。もし本当にそんな約束をしていたのなら、叶えてやりたいと、そう思ったから。
「さて、と…。とりあえず、中に入れるか調べてみるか」
俺は穂乃果の頭からそっと手を離すと、軋むであろう玄関のドアへと、一歩、足を踏み出した。