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第11話 虫食いの様な記憶


放課後の生ぬるい風が、汗ばんだ首筋を撫でていく。太陽は少しだけ西に傾き、アスファルトに俺たちの長い影を落としていた。遠くからは、運動部の掛け声と、一日中鳴き続けた蝉の、どこか疲れたような声が聞こえてくる。


「ねぇ輝流」


「ん?なんだ穂乃果」


隣を歩く穂乃果が、ふと足を止めた。つられて俺も立ち止まる。


「この辺りがね、秋崎叶さんのお家があった場所なんだよ」


その声は、やけに静かだった。


「……なに?この辺りが?」


視線を巡らせても、見えるのはありふれた住宅街の風景だけだ。穂乃果は俺の返事を待たずに、どこか楽しんですらいるような横顔で続ける。


「うん。詳しい位置までは流石にわからないけど…探してみる? ちなみに、茶色い屋根に三階建ての、昔ながらの大きなお家だって。」


「そうおじいちゃんの資料に書いてあった」


……やっぱりか。俺が「行く」と返事をすることを、こいつはとっくに見越していたらしい。

そしてなにより、おじいさんの情報力がいちばん怖い。


「……はぁ。助かるよ」


呆れたような、それでいて感心したような息が漏れた。


「えへへ、いいえ!それじゃ、いこ!」


穂乃果は、してやったりとでも言いたげに笑った。


***


住宅街の細い路地を抜け、視界が拓ける。見渡す限りの青々とした田んぼが、夏の匂いを濃くしていた。

そこに、ぽつんと。まるで世界から忘れられることを望むように、一軒の家が建っていた。黒ずんだ茶色の屋根。三階建ての、古びた家。


「……穂乃果、これじゃないか?」


隣で、穂乃果が息を呑む音が聞こえた。俺のシャツの袖を、小さな手がきゅっと掴む。

一目で、廃墟だと分かった。壁のあちこちに黒い染みのような蔦が絡みつき、割れた窓ガラスが空虚な眼窩のようにこちらを見ている。人の営みが消えた建物は、こんなにも早く朽ちていくものだろうか。鼻につくのは、湿った土と黴の匂い。かつてここにあったはずの、生活の匂いなんてものは、欠片も残っていないようだった。


「…秋崎さんのご両親は?」


俺は、祖父の知恵を借りてすっかり物知りになった穂乃果に尋ねた。


「うーん…」


歯切れの悪い返事。何かを知っている人間のそれだった。


「なんだよ、その反応は」


「…ご家族の方も、不審な亡くなり方をしてるみたいなんだよね」


「それも…お父さんもお母さんも…そのどちらとも…」


おいおい、マジかよ……。

本人は自殺。恋人も翌年に後追い自殺。挙句の果てに、家族まで不審死?

先日まで非科学的なものを信じていなかった俺でさえ、ここまで不幸が重なると、何か見えない力が働いているとしか思えなかった。


「ねぇ輝流…やっぱり、やめない…? 普通じゃないよ、こんなの…」


穂乃果の声が、微かに震えている。その通りだ。普通じゃない。

だが、俺の心臓は、嫌な音ではなく、どこか期待するような静かなリズムで脈打っていた。恐怖よりも先に、未知への好奇心が鎌首をもたげる。我ながら、変な性分だと思う。


「穂乃果」


「な、なに?」


「お前はここで待ってろ。俺は、中を見てくる」


突き放すような物言いになったのは、自覚している。これは俺個人の、ただのわがままだ。こいつを巻き込むわけにはいかない。


「危ないのは分かってる。だから、お前は先に帰れ」


「っ…そんなの…」


穂乃果が、俯いたまま何かを呟いた。次の瞬間、叫び声が鼓膜を叩いた。


「輝流のバカぁ!!!!」


ゴッ、と鈍い衝撃。左足のスネに、焼けるような痛みが走った。


「いっ、痛ってぇな!!?」


見れば、穂乃果が肩をぷるぷると震わせ、涙の膜が張った瞳で俺を睨みつけていた。


「輝流が行くなら、私が行かないわけないでしょ!!!」


「なんでだよ!?」


「輝流に何かあったら、嫌だもん!」


その言葉に、心臓が大きく跳ねた。

ああ、そうか。俺がこいつを大切に思うのと同じくらい、こいつも俺を。その当たり前の事実が、蹴られたスネの痛みと一緒に、じんわりと染み込んでくる。


「…輝流は、約束覚えてないの?」


「…約束?」


「私を、お嫁さんにするって約束!」


不意打ちだった。思考が、一瞬停止する。

なんだって? 嫁?

頭の中に散らばる記憶の断片を、必死にかき集める。だが、そんな約束をした覚えは、どこにもなかった。


…俺の記憶は、ところどころが虫食いのように抜け落ちている。病気や物忘れとは、何かが違う。もっと根本的な、理由の分からない欠落。


「………」


「輝流…?」


俺が黙り込んだことで、穂乃果の顔が不安に曇る。その表情を見て、答えは決まった。

俺は、おもむろに穂乃果の頭に手を置き、子供をあやすように軽く撫でた。


「ああ。大丈夫だ。覚えてるよ」


口から滑り出たのは、我ながら驚くほど、スムーズな嘘だった。

こいつを傷つけたくない。そして、何より。もし本当にそんな約束をしていたのなら、叶えてやりたいと、そう思ったから。


「さて、と…。とりあえず、中に入れるか調べてみるか」


俺は穂乃果の頭からそっと手を離すと、軋むであろう玄関のドアへと、一歩、足を踏み出した。

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