目次
ブックマーク
応援する
3
コメント
シェア
通報

第13話 血濡れの老婆


家が、鳴り始めた。

パキ…、と乾いた木材が軋む音。ドンッ、と壁の奥で何かが打ち付けられるような鈍い音。


ドッドッドッドッ…!


まるで誰かが焦って階段を駆け上がっていくかのような、性急な足音までが家中から聞こえてくる。


「ひ…、輝流…これ…」


背後から、穂乃果の引き攣った声が聞こえる。


「大丈夫だ。俺がいる」


おかしい。この音は、まるで家が生きているかのようだ。あるいは、今も誰かが、この廃墟で生前と変わらぬ暮らしを続けている、とでもいうように。

ここで時間を無駄にはできない。

窓の外は、もう夕闇に呑まれ始めている。

穂乃果が俺の服を掴む腕が、小刻みに震えているのが分かった。


……あまり長居はできない。


「穂乃果。俺の背中に隠れて、周りを見るな」


「…うん…」


か細い声で返事をすると、穂乃果が俺の背中に額をこすりつけてくるのが気配で分かった。

俺はスマホのライトを点灯させ、その白い光で闇を切り裂くように前方を照らす。

玄関の壁には、ガラスの割れた家族写真。その先の和室からは、風もないのに、白いレースのカーテンがゆらり、ゆらりと幽霊のように揺れていた。

床に散らばるガラス片を踏まないよう、慎重に足を進める。目指すは、裏庭に面したガラス張りの扉だ。あそこからなら、外に出られるはずだ。


軋む床板に足音を殺しながら、リビングらしき部屋を抜ける。その奥に、目的のガラス戸はあった。薄汚れたガラスの向こうには、月明かりに照らされた、救いのように静かな夜の庭が見える。


「ここだ。ここを破れば…」


俺は、穂乃果を背中に庇ったまま、自分の学生服の上着を右肘に固く巻き付けた。


「少し離れてろ」


ドンッ!


体重を乗せ、ガラスの中心を肘で打つ。骨に響くような鈍い衝撃。だが、ガラスは砕けない。ひび一つ入らなかった。


「…くそっ!」


もう一度、今度はより強く、全体重を乗せて叩きつける。


ガンッ!!と、腕が痺れるほどの衝撃。しかし、ガラスはまるで分厚い鉄板でもあるかのように、沈黙を保っている。

何度、何度叩きつけても結果は同じだった。俺の荒い呼吸と、肉を打つ鈍い音だけが、不気味な家の中に響き渡る。


「輝流、もうやめて…! 無理だよ…!」


背後から、穂乃果の悲鳴のような声が聞こえる。


その時だった。


ふと、殴りつけるのをやめた。

汗が目に入る。ぜぇ、ぜぇ、と自分の荒い呼吸だけが聞こえる。

違う。

何か、別の音が。いや、音じゃない。


──視線。


背中に、まるで氷を押し付けられたかのような、悪寒が走った。

誰かに、見られている。

この家の、暗闇のどこかから。じっと。

俺は、軋む首を動かすように、ゆっくりと背後を振り返った。

穂乃果のいる玄関の方ではない。リビングの、さらに奥。家具に白い布がかかった、一番暗い部屋の隅。

スマホのライトが、その一点を捉える。

そこに、血まみれの老婆が立っていた。

着ている着物は赤黒く汚れ、そこから滴る液体が床に小さな染みを作っている。皺だらけの顔には何の感情もなく、ただ、虚ろな目だけが、じっと俺たちを見つめていた。


時間が、凍り付いたようだった。

俺のスマホが照らし出す光の輪の中で、老婆は微動だにしない。虚ろな、白目だけが剥き出しになった眼窩が、こちらを捉えている。背後で、穂乃果が息を殺しているのが気配で分かった。

不意に、老婆の右腕が、ぎ、ぎぎ、と錆びついたブリキ人形のように持ち上がる。血で赤黒く染まった指先が、ゆっくりと、天井を指差した。


ついてこい。


言葉はない。だが、その仕草が持つ意味は、嫌というほど明確に伝わってきた。


「……ついてこいって、ことか…?」


喉から、自分でも驚くほど乾いた声が漏れた。

恐怖よりも、この先に何があるのかを知りたいという衝動が、勝っていた。ここで背を向けて、あの割れない窓を叩き続ける選択肢は、なぜか俺の中にはなかった。


「…輝流、何かいるの……?行っちゃだめだよ…」


背後から、穂乃果が懇願するような声で囁く。


「大丈夫だ。なんだか、話が通じるような……そんな気がする」


俺は一歩、前に足を踏み出した。

俺が動いたのを見て、老婆はゆっくりと踵を返す。ずる、ずる、と濡れた着物が床を擦る、湿った音を立てながら、家の奥にある階段の方へと向かっていく。

俺たちは、その後を追った。


穂乃果は俺の背中に顔を埋め、ただその震えだけを伝えてくる。俺は、スマホのライトを老婆の背中に固定したまま、一歩ずつ、慎重に歩を進めた。

軋む階段を一段、また一段と昇る。黴と、あの鉄錆の匂いが、階上に近づくにつれて濃くなっていくのを感じた。


二階の廊下は、一階よりもさらに闇が深かった。等間隔に並んだ、いくつもの部屋の扉が、まるで巨大な獣の歯のように見える。

老婆は、その廊下のちょうど真ん中まで進むと、ぴたり、と足を止めた。

そして、振り返りもせず、目の前にある扉を、すぅ…、と通り抜けて消えてしまった。開閉の音も、立てずに。


廊下には、俺と穂乃果、そして等間隔に並ぶ不気味な扉だけが残された。

老婆が消えたのは、真ん中の部屋。

静寂の中、俺はゆっくりとその扉へと近づき、冷たいドアノブに、手をかけた。


***


ぎぃ、と鈍い音を立ててノブが回る。扉を開けると、一階とは比べ物にならないほど濃密な、古い紙と埃の匂いが鼻を突いた。


書庫だった。


部屋の三方を、天井まで届く本棚が埋め尽くしている。俺のスマホライトがその表面を滑ると、びっしりと並んだ本の背表紙が、一瞬だけ光って闇に溶けていった。

部屋の奥。窓際に近い本棚の前に、あの老婆が立っていた。

さっきと同じように、こちらに背を向け、血に濡れた指先で、本棚の一画を、ただじっと指差している。

穂乃果の震えが、背中に伝わってくる。俺は、老婆の横をすり抜けるように、慎重にその本棚へと近づいた。

老婆が指差しているのは、分厚い専門書が並ぶ中で、一冊だけ不自然に差し込まれた、黒い革張りのノートだった。


俺は息を止め、そっとそのノートに指をかける。ひやりとした、嫌な感触。引き抜いた瞬間、積もっていた埃がぱっと舞い上がった。


手の中に、ずしりと重いノートが収まる。

視線を上げると、もうそこに老婆の姿はなかった。まるで最初から何もいなかったかのように、静かな闇が広がっているだけだった。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?