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第14話 叶の日記


老婆が消えた後の静寂は、やけに重く、耳に張り付くようだった。

俺は、手の中にあるノートの表紙を、指でなぞる。積もった埃を払うと、その下から現れたのは、何の変哲もない、ただの黒いノートだった。

唾を飲み込み、震える指で、最初のページを開く。

古ぼけた紙の上を、掠れた万年筆のインクが這っていた。


『──この地には古来より、山を鎮める守り神がいた』


「……守り神?」


思わず、声が漏れた。

その言葉に、背後で息を殺していた穂乃果が、びくりと肩を震わせる。恐怖よりも好奇心が勝ったのか、彼女はおそるおそる俺の肩越しに、ノートを覗き込んできた。


「えっ…」


俺たちは、顔を見合わせる。老婆は、これを俺たちに見せるために?

二人きりになったことで、少しだけ冷静さを取り戻した俺は、改めて書庫全体を見渡した。スマホのライトが、無数の本の背表紙を照らし出す。そのほとんどは、色褪せてタイトルも読めない。

光の輪をゆっくりと動かしていくと、いくつかのタイトルが目に飛び込んできた。


『この地の歴史』『桜織市の伝説』…。

なるほど、この家の主は、郷土史家か何かだったのかもしれない。

さらに棚を照らしていくと、俺の指が、ふと止まった。

一冊だけ、他とは明らかに雰囲気の違う、新しい本。


『霊との向き合い方』


その下に書かれた著者名に、俺はなぜか目を奪われた。


『著:櫻井 悠斗』


知らない名前だ。だが、そのタイトルは、今の俺たちにとってあまりに直接的すぎた。

一瞬、その本に手が伸びかける。だが、俺は首を振り、もう一度『この地の歴史』と書かれた、分厚く古びた本へと向き直った。


今は、幽霊と戦う方法じゃない。そもそも、なぜ秋崎叶さんたちが死ななければならなかったのか。その根源を知る必要がある。


俺は、『この地の歴史』を本棚から引き抜いた。


「輝流、守り神なんて話、聞いたことある?」


「いや、初耳だ。神鳴山の神が荒ぶれたって話は、嫌というほど聞かされてきたが…」


「うちのおじいちゃんも、そんな話はしてなかったな…」


どうやら、この町の人間でも知らない、忘れられた歴史らしい。

俺たちは、比較的埃の少ない床に並んで腰を下ろすと、ノートと歴史書をライトの光で照らし、そのページを読み進め始めた。

俺は、分厚く、かび臭い『この地の歴史』のページを、慎重にめくっていった。目次を頼りに、「信仰」「伝承」といった単語を探す。そして、ある一つの章に、俺たちの指は止まった。


第三章:忘れられた信仰

俺は、スマホのライトが照らすその一文一文を、声を潜めて読み上げていく。隣で、穂乃果が息を殺して耳を澄ませているのが分かった。


> ──現代に伝わる神鳴山の伝承とは別に、この地にはかつて、名も忘れられた古き神への信仰が存在したと記されている。


> 人々はその神を「山坐神(やまいますかみ)」と呼び、山そのものを神体として崇めていた。山坐神は、人々に山の幸をもたらし、麓の田畑を潤す慈悲深き守り神であったという。


> しかし、その恩恵は山への畏敬と共にあることを、人々は固く戒めていた。山の静寂を乱すこと、森の木々をみだりに伐ること、そして何より、神の御顔(みかお)を拝まんとしてはならぬ、と。古文書の一節には、「神は貌(かんばせ)無くして万の貌を持つ故」という、謎めいた記述も残されている。


> この信仰がいつ頃から廃れたのか、その記録は定かではない。ただ、町の発展と共に、山坐神の名は人々の記憶から消え、その慈悲深い性質とはかけ離れた、荒ぶる山の神の伝説だけが、現代に語り継がれることとなったのである。

>


「…………」


俺は、本から顔を上げた。穂乃果も、呆然とした表情で俺を見つめている。

書庫の静寂を、俺たちの浅い呼吸だけが満たしていた。


「『御顔を拝まんとしてはならぬ』…見てはいけない神様、だったんだね…」


穂乃果が、か細い声で呟いた。

「ああ。…だが、俺たちが知ってる神鳴山の神の話とは、ずいぶん違うな。ただ恐ろしいだけの神じゃなかったらしい」

慈悲深き守り神、「山坐神」。

そして、その信仰が廃れた後に語り継がれるようになった、「荒ぶる山の神」。

これは、二柱の別の神の話なのか。


それとも──。


俺の脳裏に、かつて穂乃果から聞いた話が蘇る。

『人間が山を削ったことで怒り、恐ろしい存在に変貌した』

背筋に、冷たいものが走った。

俺は、この家の住人が残したもう一つの手掛かり、あの黒いノートへと、再び手を伸ばした。


その時だった。


ひやり、と。部屋の温度が、また数度下がった気がした。

目の前の暗闇から、すぅ…、と現れるように、再びあの老婆が姿を現す。さっきと何も変わらない、血に濡れた姿で。

老婆は、何も言わない。ただ、その白目だけを剥き出しにした虚ろな瞳で、俺が手にしている歴史書、そしてノートを交互に見つめている。

まるで、「違う、そうじゃない」とでも言うように、その皺だらけの顔が、わずかに苦痛に歪んだ。

そのもどかしさが臨界に達したのか、老婆の表情が、絶望に塗りつぶされる。


『ア……ァァ……アアアアアアアアアアア!!!!』


それは、声ではなかった。

脳を直接揺さぶるような、悲痛な絶叫。怨念と、悲嘆と、絶望だけを煮詰めたような音の塊が、鼓膜を無視して俺の意識を殴りつけた。


「うっ…!」


俺は思わず耳を塞ぎ、その場に片膝をついた。


「輝流!? どうしたの、急に…!」


穂乃果の悲鳴が、どこか遠くに聞こえる。彼女には、この老婆の姿も、この絶叫も届いていない。ただ、俺が突然苦しみだしたようにしか見えていないのだ。

絶叫は、やがて嗚咽に変わる。老婆は、血の涙を流すかのように顔を覆い、その姿は陽炎のように揺らぎ始めた。そして、次の瞬間には、掻き消すようにいなくなっていた。


後には、部屋の温度が元に戻ったかのような、生ぬるい空気だけが残されていた。

しばらく、荒い呼吸を整えるのに時間が必要だった。

いくつかの部屋を見て回ったが、手掛かりはない。ただ、埃と静寂が俺たちを迎えるだけだった。途方に暮れて廊下に出た、その時だ。


また、あの悪寒が背筋を走る。

見ると、廊下の先、三階へと続く階段の前で、あの老婆が、またしても、じっと、上を指差していた。

三階。この家には、まだ上がある。

俺は覚悟を決め、穂乃果と共に階段を昇った。さらに、また老婆がひとつのドアの前に立っている。


そして…先程と同じ様に、すり抜けて行った。

俺たちがその部屋のドアを開けると、そこは、今まで見てきたどの部屋よりも、酷く荒れ果てていた。


「……なんだ、この部屋は」


思わず声が漏れた。他の部屋も荒れてはいたが、ここは次元が違う。床には教科書や参考書、雑誌が散乱し、いくつかの家具は倒れている。


「なんでこの部屋だけ、こんなにボロボロなんだ…? まるで、何かを探し回ったような…」


だが、その混沌とした部屋の中で、一点だけ。

勉強机の上だけが、まるで時が止まったかのように、綺麗に整えられていた。

そして、その中央に、一冊の日記が置かれていた。

俺は、その日記を手に取った。可愛らしい花柄の表紙。ページをめくると、瑞々しい、若い女性の筆跡が目に飛び込んできた。


【叶の日記】

* 七月八日(月)晴れ

帰り道、道政くんがアイスを買ってくれた。私はチョコで、道政くんはソーダ味。半分こしようって言ったら、「お前のそのチョコ、一口ちょうだい」だって。そういうとこ、ずるいと思う。でも、夕焼けに照らされた道政くんの横顔が綺麗で、何も言えなくなっちゃった。


* 七月十日(水)くもり

次のデート、映画に行くことになった! 道政くんはホラーが見たいって言ってたけど、私が苦手なのを知ってるから、結局ラブストーリーに付き合ってくれるらしい。本当に優しい。お礼に、今度お弁当を作ってあげようかな。


* 七月十二日(金)雨

今日、変なものを見た。

学校の帰り道、神社の近くの電柱の鏡に、一瞬だけ、背の高い、黒い影みたいなのが映った気がした。振り返っても、誰もいない。気のせいかな。最近、少し疲れてるのかも。


* 七月十四日(日)晴れ

声が聞こえた。風の音に混じって、誰かが私の名前を呼んでる。道政くんと電話してた時だったから、気のせいだって笑われたけど、なんだか、ずっと耳に残ってる。


* 七月十六日(火)くもり

また、見た。今度は、家の前の道の向こう側に。黒くて、手足が異様に長い「何か」。じっと、こっちを見てる。怖くて、すぐにカーテンを閉めちゃった。もう、気のせいじゃない。あれは、私を見ている。


* 七月十九日(金)晴れ

道政くんが、くれた。小さな箱。

開けたら、キラキラの、綺麗な指輪が入ってた。婚約指輪だって。

「叶を、俺のお嫁さんにして下さい」って。

最近、ずっとあの黒い影のことで怖くて、不安で、眠れない夜もあったけど、全部吹き飛んじゃった。

道政くんがいれば、私は大丈夫。

明日は、夏祭り。二人で行く約束。

白いお気に入りのワンピースに身を包んで行くんだ。

すっごく、すっごく、楽しみ。

明日が、待ち遠しい。

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