老婆が消えた後の静寂は、やけに重く、耳に張り付くようだった。
俺は、手の中にあるノートの表紙を、指でなぞる。積もった埃を払うと、その下から現れたのは、何の変哲もない、ただの黒いノートだった。
唾を飲み込み、震える指で、最初のページを開く。
古ぼけた紙の上を、掠れた万年筆のインクが這っていた。
『──この地には古来より、山を鎮める守り神がいた』
「……守り神?」
思わず、声が漏れた。
その言葉に、背後で息を殺していた穂乃果が、びくりと肩を震わせる。恐怖よりも好奇心が勝ったのか、彼女はおそるおそる俺の肩越しに、ノートを覗き込んできた。
「えっ…」
俺たちは、顔を見合わせる。老婆は、これを俺たちに見せるために?
二人きりになったことで、少しだけ冷静さを取り戻した俺は、改めて書庫全体を見渡した。スマホのライトが、無数の本の背表紙を照らし出す。そのほとんどは、色褪せてタイトルも読めない。
光の輪をゆっくりと動かしていくと、いくつかのタイトルが目に飛び込んできた。
『この地の歴史』『桜織市の伝説』…。
なるほど、この家の主は、郷土史家か何かだったのかもしれない。
さらに棚を照らしていくと、俺の指が、ふと止まった。
一冊だけ、他とは明らかに雰囲気の違う、新しい本。
『霊との向き合い方』
その下に書かれた著者名に、俺はなぜか目を奪われた。
『著:櫻井 悠斗』
知らない名前だ。だが、そのタイトルは、今の俺たちにとってあまりに直接的すぎた。
一瞬、その本に手が伸びかける。だが、俺は首を振り、もう一度『この地の歴史』と書かれた、分厚く古びた本へと向き直った。
今は、幽霊と戦う方法じゃない。そもそも、なぜ秋崎叶さんたちが死ななければならなかったのか。その根源を知る必要がある。
俺は、『この地の歴史』を本棚から引き抜いた。
「輝流、守り神なんて話、聞いたことある?」
「いや、初耳だ。神鳴山の神が荒ぶれたって話は、嫌というほど聞かされてきたが…」
「うちのおじいちゃんも、そんな話はしてなかったな…」
どうやら、この町の人間でも知らない、忘れられた歴史らしい。
俺たちは、比較的埃の少ない床に並んで腰を下ろすと、ノートと歴史書をライトの光で照らし、そのページを読み進め始めた。
俺は、分厚く、かび臭い『この地の歴史』のページを、慎重にめくっていった。目次を頼りに、「信仰」「伝承」といった単語を探す。そして、ある一つの章に、俺たちの指は止まった。
第三章:忘れられた信仰
俺は、スマホのライトが照らすその一文一文を、声を潜めて読み上げていく。隣で、穂乃果が息を殺して耳を澄ませているのが分かった。
> ──現代に伝わる神鳴山の伝承とは別に、この地にはかつて、名も忘れられた古き神への信仰が存在したと記されている。
> 人々はその神を「山坐神(やまいますかみ)」と呼び、山そのものを神体として崇めていた。山坐神は、人々に山の幸をもたらし、麓の田畑を潤す慈悲深き守り神であったという。
> しかし、その恩恵は山への畏敬と共にあることを、人々は固く戒めていた。山の静寂を乱すこと、森の木々をみだりに伐ること、そして何より、神の御顔(みかお)を拝まんとしてはならぬ、と。古文書の一節には、「神は貌(かんばせ)無くして万の貌を持つ故」という、謎めいた記述も残されている。
> この信仰がいつ頃から廃れたのか、その記録は定かではない。ただ、町の発展と共に、山坐神の名は人々の記憶から消え、その慈悲深い性質とはかけ離れた、荒ぶる山の神の伝説だけが、現代に語り継がれることとなったのである。
>
「…………」
俺は、本から顔を上げた。穂乃果も、呆然とした表情で俺を見つめている。
書庫の静寂を、俺たちの浅い呼吸だけが満たしていた。
「『御顔を拝まんとしてはならぬ』…見てはいけない神様、だったんだね…」
穂乃果が、か細い声で呟いた。
「ああ。…だが、俺たちが知ってる神鳴山の神の話とは、ずいぶん違うな。ただ恐ろしいだけの神じゃなかったらしい」
慈悲深き守り神、「山坐神」。
そして、その信仰が廃れた後に語り継がれるようになった、「荒ぶる山の神」。
これは、二柱の別の神の話なのか。
それとも──。
俺の脳裏に、かつて穂乃果から聞いた話が蘇る。
『人間が山を削ったことで怒り、恐ろしい存在に変貌した』
背筋に、冷たいものが走った。
俺は、この家の住人が残したもう一つの手掛かり、あの黒いノートへと、再び手を伸ばした。
その時だった。
ひやり、と。部屋の温度が、また数度下がった気がした。
目の前の暗闇から、すぅ…、と現れるように、再びあの老婆が姿を現す。さっきと何も変わらない、血に濡れた姿で。
老婆は、何も言わない。ただ、その白目だけを剥き出しにした虚ろな瞳で、俺が手にしている歴史書、そしてノートを交互に見つめている。
まるで、「違う、そうじゃない」とでも言うように、その皺だらけの顔が、わずかに苦痛に歪んだ。
そのもどかしさが臨界に達したのか、老婆の表情が、絶望に塗りつぶされる。
『ア……ァァ……アアアアアアアアアアア!!!!』
それは、声ではなかった。
脳を直接揺さぶるような、悲痛な絶叫。怨念と、悲嘆と、絶望だけを煮詰めたような音の塊が、鼓膜を無視して俺の意識を殴りつけた。
「うっ…!」
俺は思わず耳を塞ぎ、その場に片膝をついた。
「輝流!? どうしたの、急に…!」
穂乃果の悲鳴が、どこか遠くに聞こえる。彼女には、この老婆の姿も、この絶叫も届いていない。ただ、俺が突然苦しみだしたようにしか見えていないのだ。
絶叫は、やがて嗚咽に変わる。老婆は、血の涙を流すかのように顔を覆い、その姿は陽炎のように揺らぎ始めた。そして、次の瞬間には、掻き消すようにいなくなっていた。
後には、部屋の温度が元に戻ったかのような、生ぬるい空気だけが残されていた。
しばらく、荒い呼吸を整えるのに時間が必要だった。
いくつかの部屋を見て回ったが、手掛かりはない。ただ、埃と静寂が俺たちを迎えるだけだった。途方に暮れて廊下に出た、その時だ。
また、あの悪寒が背筋を走る。
見ると、廊下の先、三階へと続く階段の前で、あの老婆が、またしても、じっと、上を指差していた。
三階。この家には、まだ上がある。
俺は覚悟を決め、穂乃果と共に階段を昇った。さらに、また老婆がひとつのドアの前に立っている。
そして…先程と同じ様に、すり抜けて行った。
俺たちがその部屋のドアを開けると、そこは、今まで見てきたどの部屋よりも、酷く荒れ果てていた。
「……なんだ、この部屋は」
思わず声が漏れた。他の部屋も荒れてはいたが、ここは次元が違う。床には教科書や参考書、雑誌が散乱し、いくつかの家具は倒れている。
「なんでこの部屋だけ、こんなにボロボロなんだ…? まるで、何かを探し回ったような…」
だが、その混沌とした部屋の中で、一点だけ。
勉強机の上だけが、まるで時が止まったかのように、綺麗に整えられていた。
そして、その中央に、一冊の日記が置かれていた。
俺は、その日記を手に取った。可愛らしい花柄の表紙。ページをめくると、瑞々しい、若い女性の筆跡が目に飛び込んできた。
【叶の日記】
* 七月八日(月)晴れ
帰り道、道政くんがアイスを買ってくれた。私はチョコで、道政くんはソーダ味。半分こしようって言ったら、「お前のそのチョコ、一口ちょうだい」だって。そういうとこ、ずるいと思う。でも、夕焼けに照らされた道政くんの横顔が綺麗で、何も言えなくなっちゃった。
* 七月十日(水)くもり
次のデート、映画に行くことになった! 道政くんはホラーが見たいって言ってたけど、私が苦手なのを知ってるから、結局ラブストーリーに付き合ってくれるらしい。本当に優しい。お礼に、今度お弁当を作ってあげようかな。
* 七月十二日(金)雨
今日、変なものを見た。
学校の帰り道、神社の近くの電柱の鏡に、一瞬だけ、背の高い、黒い影みたいなのが映った気がした。振り返っても、誰もいない。気のせいかな。最近、少し疲れてるのかも。
* 七月十四日(日)晴れ
声が聞こえた。風の音に混じって、誰かが私の名前を呼んでる。道政くんと電話してた時だったから、気のせいだって笑われたけど、なんだか、ずっと耳に残ってる。
* 七月十六日(火)くもり
また、見た。今度は、家の前の道の向こう側に。黒くて、手足が異様に長い「何か」。じっと、こっちを見てる。怖くて、すぐにカーテンを閉めちゃった。もう、気のせいじゃない。あれは、私を見ている。
* 七月十九日(金)晴れ
道政くんが、くれた。小さな箱。
開けたら、キラキラの、綺麗な指輪が入ってた。婚約指輪だって。
「叶を、俺のお嫁さんにして下さい」って。
最近、ずっとあの黒い影のことで怖くて、不安で、眠れない夜もあったけど、全部吹き飛んじゃった。
道政くんがいれば、私は大丈夫。
明日は、夏祭り。二人で行く約束。
白いお気に入りのワンピースに身を包んで行くんだ。
すっごく、すっごく、楽しみ。
明日が、待ち遠しい。