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第15話 砕かれた場所で


俺は、日記の最後のページから、顔を上げることができなかった。

スマホのライトが照らす小さな文字の上に、ぽたり、としずくが落ちて染みを作る。隣で、穂乃果が鼻をすする音が聞こえた。


「こんな…こんな幸せなことの、すぐ後に…」


「ああ……亡くなるなんてな…」


『明日が、待ち遠しい』。


その、希望に満ちた言葉が、鉛のように重く胸にのしかかる。彼女が待ち望んだ明日は、永遠に来なかった。

脳裏に、あの踏切ふみきりで見た女の姿が焼き付いている。

血に濡れたワンピース。ぐちゃぐちゃに潰れた顔。


そして…。


不自然なまでに、何もつけていない、紫色の細い指。


「……そういえば」


俺は、はっとしたように呟いた。


「…指輪…してなかったな…」


「え…? そ、そんなところまで見てたの…?」


穂乃果が、涙で濡れた瞳を丸くする。


「ああ…。もしかしたら…指輪を返したら、成仏するんじゃないか?」


幽霊が、未練を残した品に執着する。それは、どの世界にも通づるルールの一つだろう。彼女にとって、道政から贈られた婚約指輪以上に、大切なものがあっただろうか。


「…怖いけど」


穂乃果が、ごしごしと目元を拭う。


「…返してあげたいね、その指輪」


「ああ。そうだな」


決まれば、早い。俺たちは、叶さんの最期の未練を見つけ出すために、再びこの混沌とした家の中を捜し始めた。

机の引き出し、散らばった本の間、倒れたタンスの裏。考えられる場所は、全て。


***


だが、数十分が経過しても、小さな光を放つはずのそれは、どこからも見つからなかった。時間だけが、無情に過ぎていく。


「どこにも、ないな…」


俺が諦めかけた、その時だった。

まただ。空気が、急速に温度を失っていく。

振り返った廊下の闇の中央に、いつの間にか、あの老婆が立っていた。

そして、初めて、その口が、動いた。


「…ユ……ビ……ワ……は…………」


まるで、喉の奥から空気が無理やり漏れ出てくるような、ひび割れた音。言葉になっていない、ただのノイズの塊。


「……ジ……コ……ノ……バ……ショ……チカク……ニ……」


聞き取れたのは、それだけだった。老婆の姿は、またしても、すぅ…、と闇に溶けて消えていく。


「事故の…場所…?」


俺が、老婆の言葉を反芻していると、隣で穂乃果が、はっと息を呑んだ。


「あっ……!!」


「どうした?」


「もしかして……叶さん、事故の時に、その衝撃で指輪が指から飛んじゃったんじゃないかな……」


穂乃果の言葉に、俺の中で、全てのピースが繋がった。


「……!」


(…だからか。だから、あの女は、もともと踏切があったとされるあの場所から離れようとしないのか…?)


(自分の亡骸があった場所じゃない。あの場の近くに……彼女が、一番大切にしていたものが、まだ眠っているから…?)


俺たちは、顔を見合わせた。

やるべきことは、一つだ。


「…行くぞ、穂乃果」


「う、うん!」


俺たちは、絶望の館を後にして、全ての始まりの場所、あの踏切へと、再び向かうことにした。


***


廃墟の淀んだ空気から解放された俺たちの肌を、湿った夜気が撫でていった。

かつて踏切があったという場所は、今はもうその面影もなく、ただ広大な田んぼだけが広がっている。ざあざあと風が稲を揺らす音と、どこかから聞こえてくる蛙の鳴き声だけが、世界の全てだった。


ここは、あまりに静かすぎる。数えきれないほどの絶望が染みついた土地だというのに。


「…くそ、本当にこの辺りなのか?」


スマホのライトを頼りに地面を照らし始めてから、もう数十分以上は経っただろうか。俺の呟きに、穂乃果は答えなかった。ただ、俺の少し後ろをついてきながら、同じように必死に地面を照らしている。


見つかるのは、錆びた釘や、泥に汚れたガラス片ばかり。無数の命が絶たれた場所だというのに、感傷に浸る余裕もなかった。焦りだけが、じりじりと胸を焼いていく。


「…輝流」


不意に、穂乃果が俺の服の袖を引いた。その声は、囁くようにか細い。


「ん?」


「あっち…用水路のほう、見てていいかな…」


穂乃果が指差したのは、田んぼに水を引くための、小さなコンクリートの用水路だった。月明かりを反射して、水面が鈍い銀色に光っている。


「ああ、頼む」


俺がそう答えると、穂乃果は頷き、おそるおそるといった足取りで用水路の縁へと近づいていった。

俺は、元々線路が敷かれていたであろう砂利道を、さらに奥へと進む。もはや、見つかる気はしなかった。あの老婆の言葉は、俺の聞き間違いだったのかもしれない。


「──あっ」


その時、背後で、穂乃果が息を呑む声がした。

俺が慌てて振り返ると、穂乃果が用水路の縁に膝をつき、水面を食い入るように見つめている。彼女が持つスマホのライトが、一点を照らしてぷるぷると震えていた。


駆け寄ると、穂乃果のライトが照らす先、水の底のヘドロに半分埋もれるようにして、何かが光を反射していた。

それは、泥と藻にまみれながらも、かろうじてその形を保った、小さな銀色の輪。石組みの隙間に、奇跡のように引っかかっている。


「…見つけた」


穂乃果の声は、震えていた。


彼女は、ゆっくりと、祈るように、その冷たい水の中へと手を伸ばす。そして、泥ごと、そっとそれを掬い上げた。

俺たちの手のひらの上で、月光とライトの光を浴びた小さな指輪は、何年もの時を経て、ようやく、その主の元へ帰るための輝きを取り戻したんだ。

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