俺たちの手のひらの上で、泥にまみれた指輪が、鈍く、けれど確かに輝いていた。
俺は、震える穂乃果の肩をそっと叩く。
「穂乃果、良くやったぞ……!」
「え、えへへ…」
穂乃果は、泥だらけの手で顔を拭って、力なく、けれど誇らしげに笑った。
俺はスマホを取り出し、時刻を確認する。液晶の光が、[21:13]という無機質な数字を映し出していた。もう、そんな時間か……。
「穂乃果、急ぐぞ」
「うん!」
俺たちは、彼女の元へ、全ての始まりとなったあの場所へと、夜道を急いで戻った。
***
風が、ざわざわと田んぼの
あの場所に戻ってきてから、もうどれくらい経っただろうか。俺たちが指輪を携えて待てども、彼女は現れない。ただ、虫の声だけが、俺たちの焦りを
その時だった。
ふと、空気が揺らめいた。目の前の空間が、陽炎のように歪み、そこから、じわりと、赤い影が滲み出してくる。
空気が急速に冷えていく。虫の声が、ぴたりと止んだ。
やがて、影は、一体の女の姿になった。
血に濡れた赤い服。人間が本来、曲がってはならない方向に四肢が折れ曲がり、いくつかの場所では、皮膚を突き破って白く鋭利な骨の先端が覗いている。顔は、判別できないほどに潰れていた。あまりに痛々しい、絶望の形。
(指輪は持った。きっと大丈夫だ……)
俺は、ごくりと喉を鳴らすと、一歩、前に出た。
「秋崎 叶さん」
俺がその名を呼ぶと、女の体が、ビクッと大きく跳ねた。
「俺は、浅井 輝流といいます」
俺は、できるだけ優しい声色を意識しながら、ゆっくりと彼女に歩み寄る。
「あなたの苦しむ声が聞こえた。あなたが何故、そうなってしまったのか……俺は気になってしまったんです」
「あなたの住んでいた家にも行きました。そこで、何かを訴えるお婆さんの姿があったんです」
「きっと…あの方は、あなたのお母さんですよね?彼女が、あなたの大切な物を見つける手助けをしてくれました」
「だから…これを」
俺は、手のひらに握りしめていた指輪を、彼女の前にそっと差し出した。
「……指を、出してください」
その言葉に、叶さんはおどおどと、壊れた人形のようにぎこちなく、自身の左手を差し出した。指はあり得ない方向に折れ曲がり、痛々しく震えている。
俺は、その冷たい指をとり、泥を拭った指輪を、ゆっくりと、薬指にはめ込んだ。
「これは、あなたの大切なものですよね」
指輪は、まるで最初からそこにあったかのように、ぴったりと彼女の指に収まった。
「穂乃果が、見つけてくれました」
「これで…あなたは、自由になれますか?」
俺が尋ねると、叶さんは、答えない。
ただ、その体から、血の染みが、すぅ…、と消えていく。折れ曲がった四肢が、滑らかに元の位置へと戻っていく。潰れていた顔が、光の粒子を纏いながら、穏やかで優しい笑顔へと再構築されていく。
彼女は、生前の、美しい姿を取り戻していた。
そして、
『こ、これは……道政君がくれた指輪…』
『見つけてくれて……ありがとう……』
初めて聞く、澄んだ声だった。
その言葉を最後に、彼女の体は、無数の光の粒子となって、夜空へとふわりと昇っていく。まるで、星屑が天に還っていくかのように。
「…………」
後に残されたのは、鳴き始めた虫の声と、俺たち二人だけだった。
「…成仏、させること…出来ちまった…」
「ほんとに……!?」
「ああ……」
自分でも、信じられなかった。
同時に、今まで感じたことのない、胸の奥から湧き上がるような熱い感覚が、俺の全身を駆け巡っていた。気だるい日常の中では決して味わえない、強烈な生命の実感。誰かの運命に触れ、それを救うという、途方もない高揚感。
俺が、その
ふと、視線を感じた。
田んぼの向こう、林の暗がりから、一本の、細長い影が、こちらを覗いているのに気がついた。
人じゃない。あれは、なんだ……?
秋崎叶さんの日記にあった、黒い影。
それが今、俺の頭の中に過ぎった。
影が林の中へと、入っていく。
「っ! おい!! 待て!!!!」
「ちょっと!? 輝流どこいくの!?」
俺は、考えるより先に走り出していた。林の中へ飛び込むが、そこに影の主はいない。ただ、不気味な静寂が広がっているだけだった。
「……なんだったんだ、今のは……」
「輝流! もう…急に駆け出さないでよ……」
「あ、ああ。悪い」
……叶さんの魂は、救われた。
だが、それは、また新たな謎の始まりに過ぎないことを、この時の俺は、まだ知らなかった。
(第一章/了)