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第16話 指輪


俺たちの手のひらの上で、泥にまみれた指輪が、鈍く、けれど確かに輝いていた。

俺は、震える穂乃果の肩をそっと叩く。


「穂乃果、良くやったぞ……!」


「え、えへへ…」


穂乃果は、泥だらけの手で顔を拭って、力なく、けれど誇らしげに笑った。

俺はスマホを取り出し、時刻を確認する。液晶の光が、[21:13]という無機質な数字を映し出していた。もう、そんな時間か……。


「穂乃果、急ぐぞ」


「うん!」


俺たちは、彼女の元へ、全ての始まりとなったあの場所へと、夜道を急いで戻った。


***


風が、ざわざわと田んぼのいねを揺らしている。


あの場所に戻ってきてから、もうどれくらい経っただろうか。俺たちが指輪を携えて待てども、彼女は現れない。ただ、虫の声だけが、俺たちの焦りをくすぶるように鳴り響いていた。


その時だった。


ふと、空気が揺らめいた。目の前の空間が、陽炎のように歪み、そこから、じわりと、赤い影が滲み出してくる。

空気が急速に冷えていく。虫の声が、ぴたりと止んだ。


やがて、影は、一体の女の姿になった。

血に濡れた赤い服。人間が本来、曲がってはならない方向に四肢が折れ曲がり、いくつかの場所では、皮膚を突き破って白く鋭利な骨の先端が覗いている。顔は、判別できないほどに潰れていた。あまりに痛々しい、絶望の形。


(指輪は持った。きっと大丈夫だ……)


俺は、ごくりと喉を鳴らすと、一歩、前に出た。


「秋崎 叶さん」


俺がその名を呼ぶと、女の体が、ビクッと大きく跳ねた。


「俺は、浅井 輝流といいます」


俺は、できるだけ優しい声色を意識しながら、ゆっくりと彼女に歩み寄る。


「あなたの苦しむ声が聞こえた。あなたが何故、そうなってしまったのか……俺は気になってしまったんです」


「あなたの住んでいた家にも行きました。そこで、何かを訴えるお婆さんの姿があったんです」


「きっと…あの方は、あなたのお母さんですよね?彼女が、あなたの大切な物を見つける手助けをしてくれました」


「だから…これを」


俺は、手のひらに握りしめていた指輪を、彼女の前にそっと差し出した。


「……指を、出してください」


その言葉に、叶さんはおどおどと、壊れた人形のようにぎこちなく、自身の左手を差し出した。指はあり得ない方向に折れ曲がり、痛々しく震えている。

俺は、その冷たい指をとり、泥を拭った指輪を、ゆっくりと、薬指にはめ込んだ。


「これは、あなたの大切なものですよね」


指輪は、まるで最初からそこにあったかのように、ぴったりと彼女の指に収まった。


「穂乃果が、見つけてくれました」


「これで…あなたは、自由になれますか?」


俺が尋ねると、叶さんは、答えない。

ただ、その体から、血の染みが、すぅ…、と消えていく。折れ曲がった四肢が、滑らかに元の位置へと戻っていく。潰れていた顔が、光の粒子を纏いながら、穏やかで優しい笑顔へと再構築されていく。

彼女は、生前の、美しい姿を取り戻していた。

そして、


『こ、これは……道政君がくれた指輪…』


『見つけてくれて……ありがとう……』


初めて聞く、澄んだ声だった。

その言葉を最後に、彼女の体は、無数の光の粒子となって、夜空へとふわりと昇っていく。まるで、星屑が天に還っていくかのように。


「…………」


後に残されたのは、鳴き始めた虫の声と、俺たち二人だけだった。


「…成仏、させること…出来ちまった…」


「ほんとに……!?」


「ああ……」


自分でも、信じられなかった。


同時に、今まで感じたことのない、胸の奥から湧き上がるような熱い感覚が、俺の全身を駆け巡っていた。気だるい日常の中では決して味わえない、強烈な生命の実感。誰かの運命に触れ、それを救うという、途方もない高揚感。


俺が、その余韻よいんひたっていた、その時だ。


ふと、視線を感じた。

田んぼの向こう、林の暗がりから、一本の、細長い影が、こちらを覗いているのに気がついた。


人じゃない。あれは、なんだ……?

秋崎叶さんの日記にあった、黒い影。

それが今、俺の頭の中に過ぎった。

影が林の中へと、入っていく。


「っ! おい!! 待て!!!!」


「ちょっと!? 輝流どこいくの!?」


俺は、考えるより先に走り出していた。林の中へ飛び込むが、そこに影の主はいない。ただ、不気味な静寂が広がっているだけだった。


「……なんだったんだ、今のは……」


「輝流! もう…急に駆け出さないでよ……」


「あ、ああ。悪い」


……叶さんの魂は、救われた。

だが、それは、また新たな謎の始まりに過ぎないことを、この時の俺は、まだ知らなかった。


(第一章/了)

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