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第21話 クラスメイトの行方


次の日。


昨日の出来事が嘘だったかのように、学校という空間はいつも通りの喧騒に満ちていた。廊下を駆け抜けていく足音、教室のあちこちで生まれては弾ける笑い声、窓から差し込む気だるい午前の光。


その、ありふれた日常の空気を切り裂いたのは、ホームルームの開始を告げるチャイムと、教室に入ってきた担任の、異様に強張った表情だった。

白髪の混じる頭を深々と下げ、重い口を開く。その声には、普段の張りが一切なかった。


「……皆に、知らせなければならないことがある」


教室のざわめきが、すっと潮が引くように消えていく。生徒たちの視線が、教壇に立つ担任の一挙手一投足に突き刺さった。


「昨日から……このクラスの、雪峰ゆきみね あおいさんと、連絡が取れなくなっている」


一瞬の沈黙。


次いで、空気が爆発したかのように、質問の声が飛び交った。


「それって、行方不明ってことですか!?」


「警察には!?」


「昨日、あの子、どうしてたんですか!?」


担任は、押し寄せる不安の波を押し留めるように両手を静かに下げ、全ての問いに、言葉を選びながら丁寧に答えていく。警察には家族から今朝連絡を入れたこと。昨日、特に変わった様子はなかったこと。


俺の隣の席では、穂乃果が、信じられない、とでも言うように、両手で口元を固く押さえていた。その瞳が、恐怖に揺れている。


(またか……)


俺は、奥歯を強く噛み締めた。この町で人が消える。その言葉が意味するものを、俺は、俺たちは、嫌というほど知っている。


その時だった。


教室の誰かが、ぽつりと呟く声が聞こえた。


「また……神鳴山かな……」


それは、特定の誰かに向けた言葉ではなかった。しかし、その一言は、教室に満ちていた全ての熱を奪い去るには、十分すぎた。

あれほど騒がしかった生徒たちは、誰一人として、もう何も言わなかった。俯く者、窓の外へ視線を逸らす者。まるで、その名を口にすることすら禁忌であるかのように、教室は墓場のような沈黙に支配された。


無理もない。


この神鳴町に住む人間にとって、あの山の名前は、それほどまでに重い。


神鳴山。


かつては信仰の対象だったその山を、町の住人は、畏怖と恐怖を込めて、今はこう呼ぶ。



──人喰い山、と。


***


昼休み前の、短い休み時間。

次の授業の準備をする生徒たちの喧騒の中、俺は一人、自分の席から穂乃果の姿を目で追っていた。


彼女は窓の外を眺めたまま、ぴくりとも動かない。机の上には、次の授業の教科書が、開かれもせずに置かれている。午前中の、あの墓場のような沈黙を、彼女だけが引きずっているかのようだった。

俺は意を決して、彼女の席へと向かった。


「……穂乃果」


声をかけても、反応はない。


「穂乃果!」


もう一度、少しだけ大きな声で名前を呼ぶ。すると、コンマ数秒の間を置いて、彼女の肩が小さく揺れた。ゆっくりとこちらを向いた顔は、まるで感情というものが抜け落ちた、能面のようだ。


「……あ……なに?」


その虚な声を聞いた瞬間、次の授業の開始を告げるチャイムが、無情に鳴り響いた。俺は、舌打ちしたいのを堪え、自分の席に戻るしかなかった。


***


そして、昼休み。


俺は智哉と二人、吹き抜ける風が心地よい屋上で、弁当を広げていた。

眼下には神鳴町のミニチュアのような景色が広がり、その向こうには、全てを見下ろすように、忌々しい神鳴山がそびえている。


「大丈夫かなぁ……」


智哉が、唐揚げ弁当の白米を頬張りながら、ポツリと呟いた。俺は、購買で買った焼きそばパンの味も分からないまま、頷く。


「穂乃果ちゃん……なんか様子おかしかったよな、今朝から」


「ああ…。さっき話しかけたんだが、心ここにあらず、って感じだった」


無理もない、と俺は思う。


雪峰 葵は、穂乃果の友人だった。

その苗字の如く、雪の峰に咲く花のように、驚くほど華奢で白い肌。葵、という名の通り、涼やかで美しい顔立ちをしていた女子だ。


今朝、担任の話を聞いて、顔を覆っていた穂乃果の姿が、脳裏に焼き付いて離れない。


クラスメイトが行方不明になる、なんて後味が悪い出来事は、もうこりごりだ。


だが、それ以上に……。


大切な存在である穂乃果が、こんな風に悲しんでいる姿を、ただ黙って見ていることなんて、俺には出来なかった。

俺は、食べかけのパンを袋にしまい、音を立てて立ち上がった。


突然の行動に、智哉が「お、おい輝流、どこ行くんだよ?」と目を丸くする。

俺は、そんな親友に背を向けたまま、一言だけ告げた。


「穂乃果のところに行ってくる」


返事も聞かず、俺は屋上の重い扉を開け、教室へと続く階段を駆け下りていった。


***


教室には、穂乃果の姿はなかった。

俺は、彼女がよくいる図書室や、中庭のベンチを回ってみたが、どこにもその姿は見当たらない。焦りが胸を焼く。


(どこに行ったんだ…?)


ふと、脳裏にある光景が浮かんだ。入学したての頃、クラスで飼っている動物の世話を、率先してやっていた彼女の姿。


そうだ、あそこなら。


穂乃果は動物が好きだ。心が弱っている時、無意識に優しいものに引き寄せられるのかもしれない。

俺は、体育館裏にある飼育小屋へと向かった。

乾いた草の匂いと、動物たちの穏やかな気配が漂ってくる。


そして、そこに、彼女はいた。


ウサギ小屋の金網の前で、穂乃果は小さな膝を折って座り込んでいた。腕の中には、生まれたばかりのような小さな子ウサギを、そっと抱きしめている。


「穂乃果…」


俺の声は、午後の穏やかな空気に吸い込まれて消えた。

やはり、返事はない。彼女の意識は、腕の中の小さな命に全て注がれているようだった。


仕方ない。

俺は、彼女の隣に無言で腰を下ろした。少し遅れて、俺の存在に気づいた穂乃果の肩が、びくりと揺れる。彼女がゆっくりとこちらを向くが、その瞳はまだ虚ろなままだった。


俺は飼育小屋の棚に置いてあった餌用のカット人参を一つ手に取ると、穂乃果が抱いている子ウサギの口元へ、そっと差し出した。

小さな鼻がひくひくと動き、次の瞬間、可愛らしい前歯が人参を捕らえる。


ポリポリポリ…。


静かな空間に、ウサギが人参をかじる音だけが、やけに大きく響いた。

その音に、張り詰めていた穂乃果の心の糸が、ほんの少しだけ、緩んだように見えた。

俺は、彼女の横顔に視線を向けたまま、静かに口を開いた。


「昨日……何か、あったのか?」


その問いは、答えを求めるというよりも、ただ、彼女の心の扉を優しくノックするような、そんな響きを持っていた。

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