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第22話 すれ違う心


「昨日……何か、あったのか?」


俺の問いかけに、穂乃果の肩が小さく揺れた。腕の中の子ウサギを抱きしめたまま、その顔は深く俯いてしまう。長いまつ毛が、影を落としていた。


俺は、それ以上の言葉をかけなかった。

ただ、隣で静かに待った。

飼育小屋の穏やかな空気の中、ウサギたちが餌を食む音だけが聞こえる。数分が、まるで数時間のように感じられた。

やがて、穂乃果が、絞り出すような声で口を開いた。


「実はさ……智哉くんの事で…昨日、葵と、喧嘩しちゃって……」


「なに? 智哉のことで?」


思わぬ名前に、俺は聞き返した。穂乃果は、こくりと小さく頷く。そこから先は、堰を切ったように、震える声で言葉を紡ぎ始めた。


「葵ね、智哉くんのことが、好きだったの…。それで、私と智哉くんが、すごく仲良くしてるから…二人はお互いに好きなんだって、不安になっちゃって…」


「だから、私は言ったんだ。そんなことないよって。私には……輝流がいるから。智哉くんのことは、友達として大好きだけど、そういう意味じゃないんだって…」


そこまで言って、穂乃果はぎゅっと唇を噛んだ。


「そしたら、葵が、すごく怒っちゃって…。『穂乃果は輝流のことが好きでも、智哉くんの気持ちは?』って…。『智哉くんの気持ちを軽んじてるんじゃないの?』って……」


詰め寄られた時の恐怖が蘇ったのか、穂乃果の声がひどく掠れていた。


「私、何も言い返せなくて…。怖くて、ただ、ごめんねって謝ることしかできなくて…。そしたら葵、もっと腹を立てて…私のせいだって言って、神鳴山の方へ、走って行っちゃったの…」


「私……止められなかった…!」


最後は、悲鳴のような声だった。

自分のせいだ、と。穂乃果の全身が、そう叫んでいるようだった。

俺は、彼女が吐き出した痛みを全て受け止めてから、空になった肺を満たすように、一つ、大きなため息をついた。


その数秒後、そっと手を伸ばし、震える穂乃果の頭を、優しく撫でた。


「……そうか」


普段の明るさとは裏腹に、こいつは昔から、心がガラス細工みたいに弱い所があった。


今回の件だって、穂乃果に悪い所なんて、一つもない。


(かと言って、雪峰が悪い訳でもないんだろう)


恋とは、人を鈍感にもするし、過敏にもする。ほんの些細なことで、世界が輝いて見えたり、絶望の淵に沈んだりする。


その感情の嵐に、ただ、巻き込まれてしまっただけなんだ。


俺は、言葉を探す代わりに、ただ、穂乃果の髪をゆっくりと、繰り返し撫で続けた。


***


俺が穂乃果の頭を撫で続けていると、やがて、午後の授業の開始を告げるチャイムが、穏やかな空気を破るように鳴り響いた。

それでも、俺はその場を離れるつもりはなかった。


「……チャイム、鳴っちゃったね」


穂乃果が、腕の中のウサギに視線を落としたまま、か細い声で言った。


「そうだな」


俺は、手を止めずに、短く答える。


(ま、大丈夫だろ。きっと智哉が、いい感じの言い訳をしてくれているはずだ)


なぜか、あの親友に対して、そんな根拠のない信頼があった。

俺は撫でていた手を止め、穂乃果の顔をまっすぐに見つめられるように、向き直った。


「お前は悪くない」


はっきりと、そう告げる。

驚いて目を見開く穂乃果に、俺は続けた。


「智哉だって、軽んじられてるなんて思った事もないと思うぞ。あいつ馬鹿だからな」


その言葉に、穂乃果の強張っていた口元が、ほんの少しだけ綻んだ。小さな、でも確かな笑みだった。それを見て、俺は畳み掛ける。


「だから心配すんな。その代わり、雪峰が帰ってきたら、お前が智哉とくっつけてやればいい」


俺は、悪戯っぽく笑いながら言った。未来の話。雪峰が、無事にここにいる、という前提の、希望の話。


その言葉に、穂乃果は、涙の膜が張った瞳で、けれど力強く、こくりと頷いた。

それから、さらに十数分が経過した。

二人を急かすものは、もう何もなかった。


「……ありがとう、輝流」


ようやく顔を上げた穂乃果が、はにかむように、そう言った。その表情には、もう迷いの色はなかった。

俺は、その顔を見て、ようやく安堵の息をつく。


「戻るぞ。そろそろ智哉も、言い訳に苦戦してるだろうからな」


そう言って立ち上がると、穂乃果も、そっとウサギを地面に放し、後から続いてくれた。


***


そして、その夜。


俺は、最低限の装備を入れた軽いリュックを背負い、片手に強力なライトを持って、自宅の玄関に立っていた。

ひやりと冷たい夜気が、肌を撫でる。


「よし、行くか」


誰に言うでもなく呟き、一歩を踏み出す。

向かう先は、一つしかない。

全ての悲劇が、そこに眠る場所。

あの、人喰い山。


──神鳴山だった。



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