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第23話 渡瀬川


神鳴山の麓に立つ鳥居は、夜の闇の中だと、世界の入り口というよりは、冥界への入り口のようだった。昼間とは全く違う、生命を拒絶するような濃密な気配。俺は町の灯りを背に、躊躇なくその鳥居をくぐった。


空気が、変わった。


鳥居の内と外で、明確に何かの境界線が引かれている。あれほど騒がしかった虫の声が完全に消え、支配的なまでの静寂が耳を圧迫する。聞こえるのは、砂利を踏みしめる自分の足音だけ。目的の遂行を妨げる、不快な静けさだった。


「……雪峰っ!」


手にしたライトで暗闇を切り裂きながら、俺は叫んだ。


「雪峰! いるなら返事をしろ!」


俺の声は、幾重にも重なる木々に吸い込まれ、何の反響もなく消えていく。まるで、この山自体が、俺という異物を黙殺しているかのようだった。


(穂乃果の、あの顔を思い出せ)


思考をクリアにする。感傷や憶測は、探索の邪魔になるだけだ。やるべきことは一つ。雪峰を見つけ出す。


それだけだ。


獣道とも呼べないような踏み跡を頼りに、山の中腹を目指す。ライトの光が、奇怪な形にねじくれた木々の幹や、濡れて光る苔むした岩を無感情に照らし出す。風が木々を揺らす音ですら、この山では何か意図を持ったノイズのように感じられた。


その時だった。


バキッ、とすぐ近くの茂みで、乾いた枝が折れる音がした。


「……っ」


俺は即座に動きを止め、音のした方へライトを向けた。思考は冷静だった。小動物か、あるいは、この山の「何か」か。光の円が闇の中を滑り、音の発生源を正確に捉えようとする。だが、そこには風に揺れる下草があるだけ。


(……見られている)


それは、勘や恐怖といった曖昧な感覚ではなかった。複数の明確な「意識」が、俺の一挙手一投足を観察している。冷徹な事実として、それを認識した。だが、それがどうした。姿を見せない相手に構っている時間はない。


俺は一度立ち止まり、意識を聴覚に集中させる。手掛かりになるような音は……。


―――……さぁ……………。


微かに、水の流れる音が聞こえる。

川だ。この山の東側には、麓へと続く沢がある。道に迷った人間が、沢沿いに下りようとするのは定石だ。


俺は、その音を頼りに、道なき道へと足を踏み入れた。急な斜面を、木の幹に掴まりながら、最短距離で下っていく。次第に、水の音は大きくなり、空気もひときわ冷たくなってきた。


やがて、視界が開ける。


木々の切れ間から、月明かりに照らされて白く輝く、川の流れが見えた。川岸にはごつごつとした岩が転がり、深い霧が立ち込めている。非現実的で、不気味な光景だったが、俺の心を揺らすには至らない。

川岸に降り立ち、ライトで周囲を照らしながら、俺は上流へと歩を進めた。


「雪峰! いないのか!」


川のせせらぎが、俺の声をかき消していく。


その、数分後だった。


俺が照らしたライトの光が、川岸の岩と岩の間に挟まる、小さな「何か」を捉えた。

それは、鮮やかな赤色をしていた。モノクロームの景色の中では、ひどく場違いな色だった。

俺は、迷わずそれに近づいた。

泥と水に濡れていたが、それが何なのかは、すぐに分かった。


「……人形…?」


赤い着物を着た、小さな布製の人形だった。長い黒髪は濡れて顔に張り付き、くりっとした黒いボタンの瞳が、じっと、こちらを見つめている。

俺は、その人形に見覚えがあった。博物館のにあった資料と当時の新聞だ。数十年前に神隠しにあったとされる、少女が持っていた人形。


俺は、その人形を拾い上げた。

ずしり、と。水を吸った布が、やけに重い。


なぜ、こんなものが、ここに?

雪峰が、これを持っていたのか?


冷たい人形を握りしめた俺の手に、苛立ちに似た感情がこもっていく。余計な謎が、また一つ増えた。


***


俺は、濡れた人形を握りしめたまま、目の前を流れる川を見つめていた。

この川には、名前がある。


渡瀬川(わたせがわ)。


教科書によれば、この川より先は神の領域、『神域』。古来より、人々はこの川を境界線として、その向こう側を不可侵の領域としてきた。


神域。禁足地。


どちらにせよ、俺がためらう理由にはならない。雪峰は、この先にいるかもしれないのだ。


俺は懐中電灯の光で、川面に突き出たいくつかの岩を照らし出した。闇に隠れたものも含めれば、対岸まで道は続いている。常人であれば自殺行為に等しいだろうが、俺の目には、それはただの「足場」にしか映らない。


俺は、川岸の岩から対岸の岩へと、何の躊躇もなく跳んだ。


その、瞬間だった。


着地した岩に激流がぶつかり、冷たい飛沫が頬を打つ。

そのあまりの冷たさが、俺の意識の底に沈んでいた、一つの記憶の蓋をこじ開けた。


──冷たい。痛い。息が、できない。


思考とは無関係に、身体が次の足場を捉えて跳躍する。


脳裏に蘇るのは、まだ小学生だった頃の光景。無謀な探検心でこの山に忍び込み、足を滑らせ、この川に呑まれたのだ。


──激流に身体を叩きつけられ、岩に右足をぶつけた時の、骨が軋む鈍い感触。


懐中電灯の光が、次に跳ぶべき岩を照らす。なぜか、その表面だけが一瞬、濡れていないように見えた。俺は寸分の狂いもなくそこに着地し、さらに次へと身体を躍らせる。ポケットの中の黒い石が、かすかに熱を持っているような気がした。


──次に気が付いた時には、病院の白い天井が見えた。半殺しの目に遭うほど、こぴどく叱られたものだ。


俺の身体は、まるで精密機械のように、闇と激流の中を突き進んでいく。

そして最後の一歩を終え、対岸のぬかるんだ地面に確かな足跡を刻んだ。


そこでようやく、俺は思考を現在に戻した。


「……はっ」


思わず、自嘲気味な笑いが漏れる。我ながら、昔からどうしようもないガキだった。


そして、今しがた蘇った記憶の奔流の中で、不意に一つの真実に思い至る。


そうだ。


あれは、ちょうど、その頃からだった。

俺が、『恐怖』という感情を、綺麗さっぱり感じなくなったのは。


***


俺は、神域とされる対岸に立ち、ふと、ある疑問に思い至った。

この川、『渡瀬川』。

そもそも、こんな山の奥深くを流れる川に名前がついているという事自体、おかしな話だ。名前とは、人がそこを認識し、生活圏の一部として利用していた証拠に他ならない。


つまり、過去の人間は、この山を当たり前のように出入りしていたということだ。


(にも関わらず……)


一体、どれ程前から、この山の立ち入りは『禁忌』とされてきたのだろうか。

そして、その『禁忌』は、なぜこれほどまでに緩いんだ?

俺は、麓にあった鳥居を思い出す。

あれは境界線ではあっても、物理的な障壁ではない。その気になれば、誰でも入ってこられる。


本当に人の立ち入りを禁じたいのであれば、もっとやりようがあるはずだ。入口に柵を作り、注連縄を張り巡らせ、物理的に誰も入れないように封鎖するのが、一番確実なはずだ。


なぜ、そうしない?


『禁忌の山』と謳いながら、その実、いつでも誰でも招き入れるように、入り口は開かれている。

それは、まるで―――。


俺は、その不自然な矛盾に、思考の深い場所へと沈んでいくのを感じていた。

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