山の禁忌が孕む、論理的ではない矛盾。
そんな思考に意識を沈めたまま、俺は神域のさらに奥深くへと足を進めていた。霧は濃くなり、ライトの光さえも、数メートル先にはもう届かない。
その、光の輪の境界線に、ふと、何かが映り込んだ。
白く、細長い「何か」。
俺が足を止めると、それは、ゆらり、と柳のように揺れた。人間…?
ライトの焦点を絞る。
照らし出されたのは、見慣れた制服の背中だった。間違いない。
「……雪峰…!」
雪峰 葵が、そこにいた。
まるで、最初からそこに根を張っていたかのように、ただ、うなだれて立っている。その身体は、振り子のように、ゆらゆらと左右へ意味もなく揺れ続けていた。
俺は彼女の元へ駆け寄り、その華奢な肩を掴んで強く揺さぶった。
「おい! 雪峰! 大丈夫か!?」
呼びかけに、反応はない。俺は彼女の正面に回り込み、ライトで顔を照らした。
そして、その光景に、強烈な違和感を覚えた。
彼女の瞳は、どこにも焦点を結んでいなかった。ただ虚空を見つめ、半開きの口からは、一筋、だらしなく涎が垂れている。生きている人間の、それではない。魂が抜き取られた、ただの人形のようだった。
(……おかしい)
思考している暇はない。ともかく、連れ帰るのが先決だ。
俺は背負っていたリュックを一度下ろして邪魔にならないように身体の前に回し、雪峰の身体を背負い上げた。ずしり、と。見た目よりも遥かに重く感じられる。
「……っ」
彼女を見つけたのなら、長居は無用だ。
そう判断し、俺は来た道を引き返し始めた。もうすぐ、あの渡瀬川にたどり着く。
その時だった。
背後から、岩石で殴りつけられたかのような、凄まじい衝撃。
「うっ……!!」
俺の身体は、数メートル先まで、いとも容易く吹き飛ばされた。受け身も取れず、地面に叩きつけられる。
何が起きたのか理解できないまま、ばっと起き上がり、背負っていたはずの雪峰の方を見つめた。
……雪峰が、そこに独りで立っていた。
さっきまでの虚ろな人形のような姿ではない。その瞳は、明確な殺意に濁り、俺という獲物を、はっきりと捉えていた。
「お、おい! 雪峰、どうした!?」
俺の問いかけへの答えは、絶叫だった。
「ァ"ァ”ァ”ァ”ァ”ァ”ァ”ァ”ァ”ァ”ァ”ァ”ァ”ァ”ァ”ァ”ァ”ァ”ァ”ァ”ァ”ァ”!!!」
鼓膜が破れそうなほどの、甲高い絶叫。
だが、違う。おかしい。その声は、女子高生が出せるような声量や音質では、断じてなかった。
雪峰の声に重なるように、もう一つ、男のものとも獣のものともつかない、低く、しゃがれた声が混じっている。
「っ……! 雪峰!?」
次の瞬間、雪峰の姿がブレた。ありえない速度で俺に詰め寄ると、その小さな両手が、俺の首をいとも容易く締め上げた。
「がっ……!!!?」
鉄の万力で締め上げられたかのような、理解不能な力。
(な、んだよ……! この力……!! 引き剥がせない……!)
俺の身体は、まるで羽のように軽々と持ち上げられた。足が宙を掻き、肺から空気が完全に絞り出される。視界が急速に白んでいく。
(……っ……死ぬ……!)
意識が朦朧としかけた、その時だった。
右のポケットに突っ込んでいた、あの石が……。
涙型の黒曜石が、まるで焼けた鉄のように、凄まじい熱を発していることに気が付いた。
(…これしか、ない…!)
最後の力を振り絞り、ポケットに手をねじ込む。指先が灼けるような痛み。だが、そんなことに構っていられなかった。
俺は、その石をどうにか掴み出すと、目の前で自分を殺そうとしている、雪峰の顔面に向かって、全力で投げつけた。
ゴッ、と鈍い音がして、石が彼女の額に当たる。
すると、たちまち、雪峰は全ての力を失った。
「ぎ、ァアアアアアアアアアアッ……!!」
俺を締め上げていた手を離し、両手で顔をかきむしりながら、彼女はその場でのたうち回り、苦しみ出したのだった。
「げほっ、ごほっ……!」
地面に転がったまま、俺は激しく咳き込んだ。酸素を求める肺が、焼け付くように痛い。首には、鉄の枷をはめられていたかのような、生々しい圧迫感が残っている。
霞む視界の中、のたうち回っていた雪峰の方向を見つめ直す。
光と影が滲む視界の先、何かが、おかしい。雪峰の輪郭が、ぐにゃりと歪んでいる。違う。雪峰の他に、なにかがいる。
瞬きを繰り返すうちに、徐々に視界のピントが合っていく。そして、俺はそれを見た。
雪峰の背後に、まるで陽炎のように佇む、一体の老婆。
肌は、血で染め上げたように真っ赤だった。痩せこけた身体には、薄汚れてボロボロになった着物が、死装束のようにまとわりついている。べったりと額に張り付いた白髪には、ぶんぶんと、黒いハエが集っていた。
そして、風に乗って、鼻を刺す強烈な腐敗臭が漂ってきた。
『許…………い……!! ……許さ……ない……! ……許さない許さない許さい許さない許さない……!!!』
声ではない。音ですらない。
脳に直接ねじ込まれるような、灼けつくような憎悪の念。
──許さない。
その強い怒りの波動を、俺はその身に直接感じていた。
ようやく視界が正常に戻った、その時だった。老婆の幻影がすっと掻き消え、糸が切れたように、ふらふらと揺れていた葵雪峰の身体が、地面に音もなく倒れた。
「雪峰!!」
俺は、首の痛みも忘れて彼女に駆け寄った。うつ伏せに倒れた身体を抱き起こし、その肩を揺する。
「おい、しっかりしろ! 雪峰!」
だが、どれだけ呼びかけても、彼女は目を覚まさない。
それどころか、触れた彼女の肌は、まるで冬の石のように、ぞっとするほど冷たくなっていた。
「う、嘘だろ!?」
流石の俺も、その現実に驚きを隠せない。死んでいる…?
その直後だった。
雪峰の足首を、闇の中から伸びてきた「何か」が、強く掴んだ。
次の瞬間、雪峰の身体は、物凄い速さで暗闇の中へと引き摺られていく。
「雪峰っ!!!」
俺は咄嗟に後を追う。だが、まるで追いつけない。地面の岩や土くれに身体を打ち付けられながら、雪峰はあっという間に闇の奥へと吸い込まれていく。
その先は、ライトの光さえも届かない、完全な暗闇。
雪峰は……深淵へと、為すすべもなく飲まれていった。