次の日。
学校に充満していたのは、昨日までの比ではない、鉛のような重い空気だった。誰もが口を閉ざし、何かが起こるのを、あるいは、何も起こらないでくれと祈るように、ただ息を潜めていた。
そして、ホームルームの時間。教壇に立った担任の顔は、死人のように青白かった。
「……皆に、伝えなければならない事が、ある」
絞り出すような声が、震えている。
「昨日から行方不明だった、雪峰葵さんが……今朝、渡瀬川の下流で、発見された……」
発見、という言葉に、クラスが凍り付く。
「遺体、で、発見された」
担任は、そこまで言うと、一度言葉を切り、何かを堪えるように強く唇を噛んだ。
「……その、発見された時の状態が……酷く…」
担任は、そこから先を、どうしても言葉に出来なかった。顔を覆い、ただ、嗚咽を漏らす。
だが、その絶望的な沈黙だけで、俺には全てが分かってしまった。昨夜、雪峰の身に何が起きたのか。あの山が、彼女の身体をどうしたのか。
(………)
俺は、なにもできなかった。
守ることも、助けることも、間に合うことすら、できなかった。
腹の底から、どうしようもない喪失感がせり上がってくる。そして、それはすぐに、出口を見つけられないまま、どす黒い怒りへと変わっていった。
だが、それよりも。
俺は、隣の席に座る穂乃果の顔を、見ることができなかった。
彼女の息を呑む気配、小さく震える肩を、ただ視界の端で感じるだけ。
怖い、という感情ではない。だが、これは、限りなくそれに近い。大切な人間が、自分の一言で、その希望が、絶望へと変わる瞬間を目の当たりにする事への、どうしようもないためらい。俺の心が、穂乃果の顔を見ることを、強く拒絶していた。
思考が、現実から逃避するように、昨夜の出来事を反芻し始める。
あの老婆は、一体なんだったんだ?
血のように赤い肌、腐り落ちたかのような肉。強烈な腐敗臭。
まるで、怪談噺に出てくる『山姥』そのものだった。
そして、脳に直接響いた、あの憎悪。
―――許さない。
アレは……一体、何に、誰に、あれほどの憎悪を向けているんだ?
答えの見つからない問いだけが、次から次へと頭の中に浮かんでくる。
そんな思考の渦の中で、その日一日の学校生活は、何の味もしないまま終わっていった。
***
放課後。ほとんどの生徒が帰宅し、夕日が差し込む教室で、俺は、一人机に突っ伏している穂乃果の元へ行った。
「穂乃果……」
声をかけると、彼女は、まるで何日も眠っていないかのように、ゆっくりと顔を上げた。その顔は、酷く弱りきっている。
「ど、どうしたの……? 輝流が、そんな顔するなんて……」
俺の表情が、よほど酷いものだったのだろう。一番辛いはずの穂乃果に、そんなことを言わせてしまった。
俺は、意を決して、全てを話すことにした。
「悪い、穂乃果。俺……実は昨日、雪峰を探しに神鳴山へ入ったんだ」
「──えっ……!?」
彼女の瞳が、驚きに見開かれる。
俺は、昨夜起きたことの一部始終を、包み隠さず話した。雪峰を見つけたこと、彼女が何かに憑りつかれていたこと、そして、目の前で、闇に連れ去られてしまったこと。
話が終わると、穂乃果は、信じられない、といった表情で、ただ呆然と俺を見ていた。
「だから……悪い、穂乃果」
俺は、それしか言えなかった。
「……なんで……輝流が、謝るの?」
「輝流は私の為に……葵の為に山へ入ったんでしょ……?それならむしろそんな無茶をさせた私が謝るべきだよ……」
「輝流……ごめんね……」
か細い声が、静かな教室に響く。
違う。お前が謝る必要なんて、どこにもないんだ。
そう言いたいのに、声にならない。
(お前に……『雪峰が帰ってきたら』なんて、希望を持たせるような事を言ったのに……俺は……)
結局、俺は何も返すことが出来ず、ただ、固く拳を握りしめることしかできなかった。
***
俺と穂乃果は、二人、無言で並んで歩いていた。
夕焼けが、通い慣れた住宅街を茜色に染めている。だが、その景色も、今はどこか色褪せて見えた。言葉数は少なく、どんよりとした重い空気が、俺たちの間に澱んでいる。
不意に、穂乃果が口を開いた。
「輝流…渡瀬川の先に、老婆が居た……って言ってたよね……?」
か細く、震える声だった。俺は、短く「ああ」と頷く。
「私……それがどうしても気になって……。なんで……葵が、死ななければいけなかったのかなって……」
穂乃果は、そこでぐっと口を噤んだ。制服の袖を固く握りしめた、その肩が小さく震えている。
俺は、夕日に染まる彼女の横顔から目を逸らし、道の先を睨みつけた。
「そうだな……。雪峰は、なんで死ななければいけなかったのか……」
自然と、握りしめた拳に力がこもる。
「それを……ちゃんと、俺たちが調べないといけない」
力強く、自分に言い聞かせるように、そう呟いた。
すると、穂乃果が、怯えたように俺の顔を見上げた。
「で、でも……それで輝流に何かあったら……嫌だよ……!」
その言葉に、俺は昨夜の出来事を思い出す。
「昨日……雪峰に首を絞められた時、あの涙型の黒曜石が、やけに熱くなったんだ」
「……あの、黒い石が?」
「……ああ。そのおかげで、身を守れた。だから、俺の身は多分……大丈夫だと思う」
それは、ほとんど直感だった。だが、事実として、あの石を投げつけた時、あの老婆の気配は、確かに苦痛に歪んでいた。あれは、ただの呪いの品ではない。
俺がそんな事を考えていると、穂乃果が、少しだけ前向きな声色で言った。
「そういえば、あれからまた、おじいちゃんの書斎でね、その黒い石の情報を探していたんだけど……」
「ああ」
「なんだか、それがあの神鳴山にまつわるものであるのは、間違いないみたいなんだ……」
「まぁ……あの社を掃除した後に、いつの間にかポケットに入ってたからな……。そうだとは思うが……」
「でさ、昨日、それっぽい古びた手記が出てきたの」
穂乃果の声に、確かな光が灯る。
「だから、今日、それを読んでみるね。合わせて、輝流が見たっていう老婆についても、もしかしたら何か分かるかもしれないから……」
彼女は、俺の目をまっすぐに見つめた。
「もう少しだけ、待っててね……」
その言葉は、絶望の淵にいた俺たちにとって、唯一の道標のように思えた。