その日の夜。
食卓には、久しぶりに親子三人が揃っていた。湯気の立つ味噌汁、焼き魚、白いご飯。いつもと変わらないはずの夕食。
だが、俺には、その味が全くしなかった。
箸を持つ手は、まるで鉛のように重い。
目を閉じれば、今も脳裏に焼き付いて離れない。闇の中、抗うこともできず、得体の知れない強い力に引き摺られていく雪峰の姿が。
「……輝流、大丈夫か?」
俺の様子を見兼ねた親父が、箸を止めて声をかけてきた。
「……ああ」
俺は、生返事を返すので精一杯だった。
「聞いたわよ、輝流…。あなたのクラスの子が……」
今度は、おふくろが、痛ましげな、優しい声でそう言った。その言葉が、鈍器のように俺の胸を抉る。
「……っ」
言葉に詰まる。何と返せばいいのか、分からなかった。
親父が、俺たちの間の重い空気を断ち切るように、続けた。
「辛いかもしれんが……何かあった時は、ちゃんと言うんだぞ。一人で抱え込むな」
その言葉に、俺はただ、小さく頷いた。
そして、ずっと頭の中で渦巻いていた、あの疑問を口にした。
「……なぁ、親父」
「ん?」
「歴史の本とかには載ってないんだけどさ、神鳴山あるだろ? なんで、あれは『禁忌』って言われてるのに、誰でも入れるようになってるんだ?」
その言葉を境に、食卓の空気が、ぴたりと凍り付いた。おふくろが、心配そうに親父の顔を見ている。
親父は、気まずそうに一度視線を泳がせた。
「……俺も、詳しい事は知らんのだ。なんせ、俺の実家は隣の風穂県だからな……」
「そう……だったな」
親父がバツの悪そうな顔をする。だが、次の瞬間、声を潜めて口を開いた。
「だが……少しだけ、噂を聞いた事がある」
「噂?」
「ああ。ここ、霞沢県の神鳴山には、酷く荒れた神がいた、と。その神を鎮めるためか、あるいは、その神を利用するためか……とにかく、何か、良くない風習があったらしい」
「良くない風習……それって、なんなんだ?」
俺が食い気味に尋ねると、親父は首を横に振った。
「俺も、この県に住んでる人間からすりゃ部外者だ。そこまでは、誰も教えてはくれんかった」
親父は、そこで一度言葉を切ると、さらに声を低くした。
「だけどな……どうも、その話はあまり語られないように、この町が率先して動いている、という話だ」
その衝撃的な言葉が、俺の脳を叩きつける。
「……い、隠蔽ってことか?」
俺の問いに、親父は黙って頷いた。
「……まぁ、あんまり、大きな声では言えんようなことなんだろうな」
そう言うと、親父は食事を終えた食器を重ねて立ち上がり、そのまま、ふらりと縁側へと座り込んでしまった。
その背中が、これ以上何も語るな、と告げているようだった。
***
親父との会話の後、俺は自分の食器を片付けると、自室のベッドへと倒れ込んだ。
軋むスプリングの音だけが、静かな部屋に響く。
ふと、ポケットの中で硬い感触が主張しているのに気づき、俺は、おもむろにあの黒い石を取り出した。
涙型の黒曜石。
部屋の豆電球の僅かな光を吸い込んで、それは、まるで固形の闇のように、俺の手のひらの上で静かに存在していた。
「……これは、一体なんなんだ?」
じっと眺めていると、思考が過去へと飛ぶ。
退屈な日常。退屈な人生。それを、どうにかして歪ませたい。
そんな、今思えば子供じみた欲望を抱えて、俺は、智哉と共に神鳴山の鳥居をくぐったのだ。
人喰い山、神鳴山。
そこで、ふと、疑問が浮かぶ。
なぜ、あの時、俺と智哉は二人とも、無事に帰ってこられたんだ?
(あれは……ただの奇跡だったのか……?)
いや、違う。奇跡なものか。
二度目、いや、雪峰を探しに行った昨夜で三度目だ。死にかけはしたものの、結果として、俺は毎回山から生きて下りてきている。
あの山は、人を攫い、殺すはずではなかったのか。
(……あぁ、もうダメだ。考え過ぎて、頭がいてぇ……)
俺は、込み上げてくる頭痛に、両手で頭を抱えた。
町の隠蔽。荒ぶる神。山姥のような老婆。そして、俺だけが生き残る、この不自然なまでの幸運。
何もかもが、繋がらない。
カチリ、とベッドサイドの電気を消す。
これ以上は、思考がもたない。今はただ、休むしかなかった。
俺は、押し寄せる暗闇に、ゆっくりと意識を沈めていった。