「さぁ、雪峰。覚悟を決めろ」
俺は、隣にいるはずの、見えない友人に、そう囁いた。葬儀場の庭園に、午後の柔らかな光が降り注いでいる。季節の花々が、俺たちの黒い喪服とは対照的に、鮮やかに咲き誇っていた。
「まずは……穂乃果との会話だな」
「えっ……」
穂乃果が、緊張した面持ちで、俺の隣……何もないはずの空間を、恐る恐る見つめた。
「そこに……葵が、いるの……?」
『うん……ここに……いるよ……』
雪峰のか細い声が、昼下がりの静寂に溶ける。
「うん、ここにいるって」
「輝流が言うの……すごく違和感あるけど……。……葵、私……葵の気持ち、分かってあげられなくて……ごめんなさい」
穂乃果が、深く、深く、頭を下げた。言葉と共に、後悔の念が滲み出ている。
「本当に、そんなつもりじゃ、なかったの……」
『うん……。今なら……わかるよ……。だって、浅生君って、こんなに素敵なんだって、私も知ることができたから』
「『今ならわかるよ』、だってさ」
『浅生君……! ちゃんと私のセリフ、全部伝えてくれないと……!』
「俺のことはいいんだよ。お前たちの会話が重要なんだ」
俺は、雪峰の抗議を軽く受け流す。
「……葵、本当にごめんなさい……。もし、この先も、それが嫌なら……言って……」
「……『それ』っていうのは、雪峰がお前のことを『智哉の気持ちを軽んじてるかもしれない』って言ってたことだよな?」
俺が補足すると、智哉が素頓狂な声を上げた。
「は??? 俺???」
「ほら、見ろよ雪峰。こういうやつだぞ、こいつは」
『あははっ……!』
俺の隣で、鈴が鳴るような、懐かしい雪峰の笑う気配がした。空気がふわりと震える。
「こんな奴が軽んじられてるまで考えるもんか」
「おい!! 罵倒に聞こえるんだが!!?」
『……ねぇ、浅生君。穂乃果に伝えてくれるかな』
静かな声音だった。
『穂乃果、私の方こそ……ごめんね』
『三人の仲が、なんだか、すごく羨ましかったんだって……』
「穂乃果。雪峰が、『私の方こそごめん』だって。『三人の仲の良さが、羨ましかった』ってさ」
「そ、そんな……。本当は……四人で、こんな風に過ごす事ができたかもしれないのに……」
穂乃果の言葉が、俺の胸にも突き刺さる。
……ああ。本当に、そう思う。もしも、なんて言葉が、こんなに無力で、残酷だなんて。
『…………そうだね……。でも、私の命は、もう尽きちゃった。だから……もう、いいんだ』
さっきまでとは違う。その声は、諦めとは似て非なる、澄んだ響きをしていた。
「雪峰の命は尽きてしまったから……もういいんだってさ」
「ねぇ……葵。苦しく、なかった……?」
涙で潤んだ瞳を必死に瞬きさせながら、穂乃果が、見えないはずの友に尋ねる。
『っ……! 苦しかった……。痛かったし……なんで私がこんな目にって、何度も思ったよ……』
「苦しかったし、どうして自分がこんな目に遭わないといけないのかって、そう思ったって……」
「輝流……葵は……この辺り……?」
穂乃果が、おずおずと、雪峰がいるはずの空間を指さす。彼女が立った場所は、寸分違わず、雪峰の目の前だった。
「……ああ」
そして、穂乃果は、まるでそこにいる大切な友の輪郭が見えているかのように、そっと両腕を広げる。その腕が、何もないはずの空間を、壊れ物をいたわるように優しく抱きしめた。
彼女には、まだ霊は見えていない。それなのに、その温もりは、確かに雪峰へと届いていた。
『っ……!!!!』
雪峰が、息を呑む気配。凍てついていた魂が、初めて熱を得たかのような、声にならない声。
「苦しかったよね……辛かったよね…………」
堰を切ったように、穂乃果の瞳から大粒の涙が零れ落ちる。それにつられるように、俺の隣で、雪峰もまた、幼い子供のように泣きじゃくっていた。
二人の少女の嗚咽だけが響く。その光景は、あまりに切なく、あまりに美しくて、俺の視界も静かに滲んだ。
『ありがとう……!! 穂乃果……!』
雪峰の感謝の叫びが、午後の気だるい空気に響いた、その刹那。
彼女を縛り付けていた怨念の血糊が、まるで陽光に溶ける朝霧のように掻き消えていく。ふわり、と柔らかな光が傷口を塞ぎ、破れた服の綻びを繕っていく。
光が晴れた時、そこに立っていたのは、俺たちの記憶の中にいる、あの日のままの、綺麗な制服姿の雪峰だった。
「えっ……」
穂乃果が、驚きの声を上げる。
「どうした?」
「今、なんか……身体を、優しく抱きしめてくれたような、温かい感覚が……」
「……雪峰が、穂乃果に『ありがとう』って言いながら、抱きしめたんだ」
あり得ないはずの奇跡。けれど、それは確かに、今ここで起きていた。
「そんな……。葵……っ、葵ぃぃぃぃ……!」
穂乃果が、その場に崩れ落ち、泣いた。
(……これで、穂乃果の心は、もう大丈夫だろう……)
俺は、雪峰に向き直る。
「さぁ、雪峰……」
『う、うん……!』
雪峰は、涙の痕が残る頬のまま、まっすぐに智哉を見つめた。
『智哉君……。私……あなたの事が、好きでした……!』
「智哉。雪峰からだ。『智哉くん……私は……あなたの事が、好きでした……!』」
この言葉だけは、一寸たりとも違えずに、叫ぶように、俺は伝えた。
「…………!!」
智哉は、驚きに目を見開いたまま、少しだけ何かを考える。そよ風が彼の前髪を揺らした。そして、次の瞬間、最高の笑顔で言った。
「……あの世でさ、また出会えたら、付き合おうぜ!!」
それは、雪峰の未練を解き放つには、百点満点……いや、百二十点の答えだった。
『っ……!!!!』
『はい……っ……!』
雪峰が、俺の知る中で一番の、幸せそうな笑顔で頷く。その微笑みは、まるで曇り空から差し込んだ一筋の光のようだった。
「『はい』、だってさ。良かったな、智哉」
「こんな形で告られるとは、思ってもなかったけどな!!」
智哉が、照れ臭そうに笑う。
その言葉が、最後の鍵だったのかもしれない。
雪峰の身体が、足元から、淡い光の粒子となって解け始める。それはまるで、長い冬を越えた雪が、春の陽光を浴びて、きらきらと輝きながら天へと昇華していく様にも似ていた。
──成仏。その二文字が、脳裏を過る。
『最後みたいだね……。浅生君……本当に、ありがとう。』
『きっと、私一人じゃ……怨みに囚われて……こんな結末を辿ることは、出来なかっただろうから……』
「……気にすんな。また生まれ変わったり出来るのならさ、四人でバカやって、過ごそうな」
『……うんっ……!』
『それじゃあ……またね……!』
無数の光の蛍となって舞い上がりながら、雪峰は、最後に最高の笑顔を俺たちに向けた。言葉にならない「ありがとう」が、その微笑みに込められている。
やがて最後の粒子が午後のまばゆい光の中へと溶け、あとに残ったのは、涙に濡れた頬を撫でる、どこか優しい風だけだった。
雪峰 葵という少女が生きた証は、確かに心に温もりを残して、安らかな光の中へと還っていった。