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第32話 告白


「さぁ、雪峰。覚悟を決めろ」


俺は、隣にいるはずの、見えない友人に、そう囁いた。葬儀場の庭園に、午後の柔らかな光が降り注いでいる。季節の花々が、俺たちの黒い喪服とは対照的に、鮮やかに咲き誇っていた。


「まずは……穂乃果との会話だな」


「えっ……」


穂乃果が、緊張した面持ちで、俺の隣……何もないはずの空間を、恐る恐る見つめた。


「そこに……葵が、いるの……?」


『うん……ここに……いるよ……』


雪峰のか細い声が、昼下がりの静寂に溶ける。


「うん、ここにいるって」


「輝流が言うの……すごく違和感あるけど……。……葵、私……葵の気持ち、分かってあげられなくて……ごめんなさい」


穂乃果が、深く、深く、頭を下げた。言葉と共に、後悔の念が滲み出ている。


「本当に、そんなつもりじゃ、なかったの……」


『うん……。今なら……わかるよ……。だって、浅生君って、こんなに素敵なんだって、私も知ることができたから』


「『今ならわかるよ』、だってさ」


『浅生君……! ちゃんと私のセリフ、全部伝えてくれないと……!』


「俺のことはいいんだよ。お前たちの会話が重要なんだ」


俺は、雪峰の抗議を軽く受け流す。


「……葵、本当にごめんなさい……。もし、この先も、それが嫌なら……言って……」


「……『それ』っていうのは、雪峰がお前のことを『智哉の気持ちを軽んじてるかもしれない』って言ってたことだよな?」


俺が補足すると、智哉が素頓狂な声を上げた。


「は??? 俺???」


「ほら、見ろよ雪峰。こういうやつだぞ、こいつは」


『あははっ……!』


俺の隣で、鈴が鳴るような、懐かしい雪峰の笑う気配がした。空気がふわりと震える。


「こんな奴が軽んじられてるまで考えるもんか」


「おい!! 罵倒に聞こえるんだが!!?」


『……ねぇ、浅生君。穂乃果に伝えてくれるかな』


静かな声音だった。


『穂乃果、私の方こそ……ごめんね』


『三人の仲が、なんだか、すごく羨ましかったんだって……』


「穂乃果。雪峰が、『私の方こそごめん』だって。『三人の仲の良さが、羨ましかった』ってさ」


「そ、そんな……。本当は……四人で、こんな風に過ごす事ができたかもしれないのに……」


穂乃果の言葉が、俺の胸にも突き刺さる。


……ああ。本当に、そう思う。もしも、なんて言葉が、こんなに無力で、残酷だなんて。


『…………そうだね……。でも、私の命は、もう尽きちゃった。だから……もう、いいんだ』


さっきまでとは違う。その声は、諦めとは似て非なる、澄んだ響きをしていた。


「雪峰の命は尽きてしまったから……もういいんだってさ」


「ねぇ……葵。苦しく、なかった……?」


涙で潤んだ瞳を必死に瞬きさせながら、穂乃果が、見えないはずの友に尋ねる。


『っ……! 苦しかった……。痛かったし……なんで私がこんな目にって、何度も思ったよ……』


「苦しかったし、どうして自分がこんな目に遭わないといけないのかって、そう思ったって……」


「輝流……葵は……この辺り……?」


穂乃果が、おずおずと、雪峰がいるはずの空間を指さす。彼女が立った場所は、寸分違わず、雪峰の目の前だった。


「……ああ」


そして、穂乃果は、まるでそこにいる大切な友の輪郭が見えているかのように、そっと両腕を広げる。その腕が、何もないはずの空間を、壊れ物をいたわるように優しく抱きしめた。


彼女には、まだ霊は見えていない。それなのに、その温もりは、確かに雪峰へと届いていた。


『っ……!!!!』


雪峰が、息を呑む気配。凍てついていた魂が、初めて熱を得たかのような、声にならない声。


「苦しかったよね……辛かったよね…………」


堰を切ったように、穂乃果の瞳から大粒の涙が零れ落ちる。それにつられるように、俺の隣で、雪峰もまた、幼い子供のように泣きじゃくっていた。


二人の少女の嗚咽だけが響く。その光景は、あまりに切なく、あまりに美しくて、俺の視界も静かに滲んだ。


『ありがとう……!! 穂乃果……!』


雪峰の感謝の叫びが、午後の気だるい空気に響いた、その刹那。


彼女を縛り付けていた怨念の血糊が、まるで陽光に溶ける朝霧のように掻き消えていく。ふわり、と柔らかな光が傷口を塞ぎ、破れた服の綻びを繕っていく。


光が晴れた時、そこに立っていたのは、俺たちの記憶の中にいる、あの日のままの、綺麗な制服姿の雪峰だった。


「えっ……」


穂乃果が、驚きの声を上げる。


「どうした?」


「今、なんか……身体を、優しく抱きしめてくれたような、温かい感覚が……」


「……雪峰が、穂乃果に『ありがとう』って言いながら、抱きしめたんだ」


あり得ないはずの奇跡。けれど、それは確かに、今ここで起きていた。


「そんな……。葵……っ、葵ぃぃぃぃ……!」


穂乃果が、その場に崩れ落ち、泣いた。

(……これで、穂乃果の心は、もう大丈夫だろう……)


俺は、雪峰に向き直る。


「さぁ、雪峰……」


『う、うん……!』


雪峰は、涙の痕が残る頬のまま、まっすぐに智哉を見つめた。


『智哉君……。私……あなたの事が、好きでした……!』


「智哉。雪峰からだ。『智哉くん……私は……あなたの事が、好きでした……!』」


この言葉だけは、一寸たりとも違えずに、叫ぶように、俺は伝えた。


「…………!!」


智哉は、驚きに目を見開いたまま、少しだけ何かを考える。そよ風が彼の前髪を揺らした。そして、次の瞬間、最高の笑顔で言った。


「……あの世でさ、また出会えたら、付き合おうぜ!!」


それは、雪峰の未練を解き放つには、百点満点……いや、百二十点の答えだった。


『っ……!!!!』


『はい……っ……!』


雪峰が、俺の知る中で一番の、幸せそうな笑顔で頷く。その微笑みは、まるで曇り空から差し込んだ一筋の光のようだった。


「『はい』、だってさ。良かったな、智哉」


「こんな形で告られるとは、思ってもなかったけどな!!」


智哉が、照れ臭そうに笑う。


その言葉が、最後の鍵だったのかもしれない。

雪峰の身体が、足元から、淡い光の粒子となって解け始める。それはまるで、長い冬を越えた雪が、春の陽光を浴びて、きらきらと輝きながら天へと昇華していく様にも似ていた。


──成仏。その二文字が、脳裏を過る。


『最後みたいだね……。浅生君……本当に、ありがとう。』


『きっと、私一人じゃ……怨みに囚われて……こんな結末を辿ることは、出来なかっただろうから……』


「……気にすんな。また生まれ変わったり出来るのならさ、四人でバカやって、過ごそうな」


『……うんっ……!』


『それじゃあ……またね……!』


無数の光の蛍となって舞い上がりながら、雪峰は、最後に最高の笑顔を俺たちに向けた。言葉にならない「ありがとう」が、その微笑みに込められている。

やがて最後の粒子が午後のまばゆい光の中へと溶け、あとに残ったのは、涙に濡れた頬を撫でる、どこか優しい風だけだった。


雪峰 葵という少女が生きた証は、確かに心に温もりを残して、安らかな光の中へと還っていった。

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