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第37話 夏の海辺


「よし、部屋も確認したしな! 俺たちはとっとと着替えるぞぉぉ!!」


『千鳥』の間に荷物を置くやいなや、智哉がバンザイをするように大きく伸びをしながら言った。俺も頷き、早速Tシャツに手をかける。男子二人の着替えなど、あっという間だ。


「おーし、準備万端! って、女子はまだかー! 海が俺を呼んでるぜー!」


襖の向こうで着替えている穂乃果と燈子に向かって、智哉が急かすように呼びかける。その声が、どこか弾んでいる。


それから、数分後。


「ごめんごめん、お待たせ!」


という穂乃果の声と共に、襖がすっと開かれた。

その瞬間、俺は、思わず息を呑んだ。


「どう?? 似合うでしょ?」


少しだけ恥ずかしそうに、はにかみながら立っていたのは穂乃果だった。


鮮やかな黄色のビキニ。その上から、少し大きめなのだろう、真っ白なワイシャツをさらりと羽織り、夏の日差しによく映える麦わら帽子を目深に被っている。潮風に吹かれてふわりと揺れるシャツの隙間から覗く素肌が、やけに眩しく見えた。


「ああ……似合ってるよ」


我ながら、あまりに素っ気ない返事しかできなかった。高鳴る心臓の音を悟られないように、咄嗟に視線を窓の外へ逃がすのが精一杯だった。


そんな俺の様子に、穂乃果が「そ、そっか。よかった!」と、嬉しそうに微笑む気配がした。


「はいはい、惚気てないで行きますよっ」


呆れたような声と共に、穂乃果の後ろから燈子が現れる。彼女は、黒のラッシュガードにショートパンツという、スポーティーで活動的な格好だった。それもまた、彼女によく似っている。


四人で海の家を飛び出し、灼熱の砂浜へ。


どこまでも続く青い空と、白い砂。耳に届くのは、力強い波の音と、カモメの鳴き声だけ。


「うおおおおお! 俺は帰ってきたァァァ!!」


もはやお約束のように、智哉が一番に海へと突っ込んでいく。まるで子供のようにはしゃぐその背中を見送り、俺たちも後に続いた。


穂乃果は、浜辺で麦わら帽子とシャツを脱ぐと、きゃっきゃと楽しそうな声を上げながら、波打ち際を走り始めた。太陽の光を浴びて輝くその笑顔は、ここ数日の間に俺が見た、どの表情よりも、ずっと晴れやかだった。


山の神も、呪いも、幽霊も。

今は、遠いどこか別の世界の出来事のように感じられた。この瞬間だけは、何もかもを忘れて、ただ、この解放感に身を委ねていたかった。


俺も智哉に続いて海へ入る。心臓が止まるかと思うほどの冷たさが、すぐに夏の熱に馴染んで、最高の心地よさへと変わった。


「輝流、こっちこっち!」


穂乃果が、満面の笑みで手招きしている。その隣では、燈子がぷかぷかと静かに水面に浮かんでいた。俺と智哉は顔を見合わせると、悪戯っぽく笑い、二人に向かって盛大な水飛沫をかけ始めた。


「きゃっ!」「つめたっ!」


黄色い声と、少し低い声が重なる。

すぐに始まった水のかけ合いに、四人の笑い声が、夏の空にどこまでも溶けていった。


***


ひとしきり水遊びを楽しんだ俺たちは、一度浜辺へと上がった。海の家でレンタルしたパラソルの下にレジャーシートを広げ、少しだけ休憩を取る。


「……なぁ、なんかすっげぇ暇じゃね?」


「はっ??もう??」


五分と経たないうちに、じっとしていられなくなった智哉が言い出した。その手には、いつの間にかビーチボールが握られている。


「ビーチバレーやろうぜ! チーム分けは、俺たち兄妹と……そっちの二人、でいいよな?」


智哉が、ニヤリと笑いながら俺と穂乃果を指さす。その視線に、穂乃果は少し顔を赤くしながらも、「うん、望むところだよ!」と力強く頷いた。


かくして、『俺&穂乃果ペア VS 鬼龍院兄妹ペア』の、奇妙な対決の火蓋が切られた。

試合は、予想通り、兄妹チームの息の合っているようで全く合っていない、ちぐはぐなコンビネーションに振り回される展開となった。


「俺にトスを上げろ!」と叫ぶ智哉を燈子が完全に無視し、的確に俺たちのコートの隙間を狙ってくる。かと思えば、智哉の放った凶悪な威力のサーブを、穂乃果が「うわっ!」と声を上げながらも必死にレシーブし、俺がそれを返す、という連携も見せた。


「輝流、ナイス!」


「穂乃果もな」


自然と交わすハイタッチ。その度に、智哉が「ちくしょー!見せつけてくれるじゃねえか!」と悔しそうに叫び、試合は妙な熱を帯びていった。


最終的には、智哉の自滅的なスパイクがネットにかかり、俺たちのチームの辛勝で幕を閉じた。


「くそー! 納得いかねぇ! 燈子が俺にトスを上げねぇからだ!」


砂浜に大の字になって責任転嫁する智哉。そんな兄を、燈子は冷たい眼差しで見下ろしている。


「次だ、次! スイカ割りで俺の本当の実力を見せてやる!」


名誉挽回とばかりに、智哉は購買所で買ったキンキンに冷えた大玉のスイカをシートの中央に置くと、タオルで自らの目を覆った。俺が、その場で智哉の身体を掴み、ぐるぐると十回ほど回転させる。


「よっしゃ、いくぜ! どこだ! スイカはどこだー!」


千鳥足でふらつきながら、智哉が棒を振り回す。

「智哉くん、もっと右、みぎ!」


「あ、行き過ぎ! ストップストップ!」


穂乃果と燈子のナビゲーションが飛び交うが、回転と興奮で混乱しているのか、智哉は完全に逆方向へと歩き始めた。まずいことに、その先には、座って様子を見ていた俺がいる。


「おい、智哉! こっち来んな! ストップ!」


俺が慌てて制止の声を上げるが、智哉の耳には届いていない。それどころか、「そこかァ!」という確信に満ちた叫びと共に、棒を大きく振りかぶった。


(――あっ死ぬ)


脳裏に、その二文字が浮かんだ、まさにその瞬間だった。


**ゴスッ!**という鈍い音。


風を切って振り下ろされる棒。その軌道上にいたはずの智哉の身体が、倒れ込んだ。


何が起きたのか分からず呆然とする俺の目の前には、仁王立ちする燈子の姿があった。その拳は、今まさに兄のみぞおちを的確に撃ち抜いた後だった。


「……ぐふっ……」


地面に崩れ落ち、エビのように丸まって呻く智哉。

燈子は、そんな兄を静かに見下ろすと、ふぅ、と一つ息を吐いて言い放った。


「まったく。危ないでしょ!」


「あ、あはは……」


穂乃果が、心配と笑いの入り混じった、絶妙な顔で乾いた声を漏らす。


「あっぶね〜……助かったぞ燈子」


俺は、自分の頭があった場所のすぐ横で砂に突き刺さっている棒の先を見つめ、心の底から燈子に感謝した。

結局、スイカは燈子が見事な一振りで的確に叩き割り、俺たち四人で、夏の味を心ゆくまで堪能した。

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