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第38話 二人の関係


あれから、俺たちは時間を忘れて遊び尽くした。


燦々と輝いていた太陽が、少しだけ西に傾き始めた午後二時。遊び疲れた俺たちは、パラソルの下で、心地よい疲労感に身を委ねていた。肌に残る塩の感覚と、じりじりと照りつける日差しが、夢現つの狭間へと意識を誘う。


「……はぁ〜……腹減った……」


静寂を破ったのは、レジャーシートの上で大の字になっていた智哉の、気の抜けた声だった。


「もう動けねぇ……。なぁ、夜飯、カレーにしないか? 俺、無性にカレーが食いたい」


「いいね、カレー! みんなで作ったら絶対美味しいよ!」


智哉の提案に、穂乃果がぱっと顔を輝かせて賛成する。その言葉に、俺たちの間ですっかり共通認識となっていた「夕食はカレー」という事実が、正式に決定した。


「よし、じゃあ決まりだな! 腹が減っては戦はできぬ、だ! 早速、買い出しに行くぞ!」


言うが早いか、智哉が砂浜から勢いよく立ち上がる。その言葉に、俺も燈子も頷いたが、穂乃果だけが、少し戸惑ったようにその場で動きを止めた。


「えっ……! 水着のまま行くの?」


穂乃果が、きょとんとした顔で、智哉と俺たちを交互に見る。確かに、水着姿のまま町へ買い出しに行くというのは、慣れない感覚では考えられないことだろう。


だが、智哉は「何を今さら」とでも言いたげに、ニカッと笑って胸を張った。


「おう! この辺りは海が目と鼻の先だからな。海の家から買い出しに行く時は、みんな水着のままが普通なんだぜ!」


「そ、そうなんだ……」


穂乃果は、まだ少し恥ずかしさが残っているのか、頬をほのかに染めながらも、「……わかった」とこくりと頷いた。そして、羽織っていたワイシャツのボタンを、胸元から一つ、二つと、丁寧に留めていく。


麦わら帽子を目深に被り直し、きっちりと前を閉じたシャツの裾を、少しだけ不安そうに握りしめる。その姿が、なんだか妙に、庇護欲をそそった。


「よし、準備OK!」


穂乃果が、意を決したように顔を上げる。

俺たち四人は、砂浜に置いていたサンダルに足を通し、近くの市場を目指して、ゆっくりと歩き始めた。


***


市場は、地元の人々と観光客で賑わっていた。

潮の香りと、新鮮な野菜の土の匂いが混じり合う、活気に満ちた空間。俺たちは、その中の一軒である八百屋の店先で足を止めた。今夜の主役となる、じゃがいもや人参を吟味するためだ。


「このじゃがいも、大きいね!」


「玉ねぎはこっちの方が甘そうだな」


穂乃果と二人でそんな会話を交わしていた、その時だった。


「あらあら……これはまた、素敵なカップルさんねぇ」


店番をしていた、人の良さそうな六十歳くらいのおばさんが、俺たち四人を見て、目を細めながらそう言った。


その瞬間、俺のすぐ隣から、すぅ…っと気温が下がるような、凄まじいプレッシャーが放たれた。横目で盗み見ると、そこには、誰にというわけでもなく、ただただ物凄い形相で虚空を睨みつける燈子の姿があった。


(ああ、なるほど……。智哉とセットで『カップル』だと誤解されたのが、心の底から許せないのか……)


このままでは、市場の空気が凍りかねない。俺は、おばさんに向かって、慌てて愛想笑いを浮かべた。


「ははは……。俺たちはともかく、こっちの二人は兄妹なんですよ」


「あら! そうだったの! それは悪かったわねぇ」


おばさんは、けろりとした様子で、おおらかな笑顔を浮かべる。その悪意のない反応に、俺も少しだけ肩の力を抜いた。


「あはは、まぁ、こんな格好で四人で出かけてたら、そう思いますよね」


おばさんをフォローし、さて、野菜選びの続きを、と思ったその時だった。


横から、じっとりとした視線を感じる。

なんだ、と思ってそちらに顔を向けると、耳まで真っ赤に染めた穂乃果だった。


「っ……! 輝流……『ともかく』って……!?」


潤んだ瞳で、こちらを見つめている。

そこでようやく、俺は自分の失言、いや、本音か?……とにかく、穂乃果が俺の「俺たちはともかく」という部分に、こんなにも可愛らしい反応を示しているのだと理解した。


その表情を見ていると、ふつふつと、悪戯心が湧き上がってくる。


俺は、少し意地悪な笑みを浮かべると、穂乃果の耳元にだけ聞こえるような声で、こう囁いた。


「……付き合ってるようなもんだろ?」


その言葉に、穂乃果の身体が「ひゃっ!?」と小さく跳ね上がり、顔が今にも爆発しそうなほど真っ赤に染まる。


その姿を見ながら、俺は、心の底から強く思った。

そう、俺は本気でそう思っている、と。


俺が何故か忘れてしまい、穂乃果だけが覚えている、幼い頃の約束。


──穂乃果と、結婚するという約束。


その約束を、俺は心の底から叶えたいと願っている。だから、今更『付き合う』だとか、そんな言葉や形に拘る必要はないのだ。


だけど、そんな理屈を抜きにしても、ただ、純粋に。

俺は、目の前でこれ以上ないほど可愛らしい反応を示している穂乃果が、好きだ。


そんな俺たちのやり取りを見ていた燈子が、ぽつりと呟いた。


「おお〜……輝流さんって……男らしいですね……」


どこか感心したような、尊敬の眼差しを向けてくる燈子。

その隣で、まるで今にも角が生えてきそうなほどの般若の形相になった智哉が、わなわなと拳を震わせていた。

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