冷たい鎖の音が響く。
目隠しをされたノアは、強引に引きずり出された。
外気に触れた瞬間、鼻を突くのは血の匂い。
見えなくても、そこが“人の場所ではない”ことを直感する。
やがて布が外され――目に飛び込んできたのは、
黒々とそびえ立つ石の塔。
「……ここが……」
ノアは喉を震わせた。
後ろから押され、足を踏み入れた瞬間、
全身を締め付けるような重圧が降りかかる。
魔法を封じる結界が、骨の髄まで食い込んでくるようだった。
奥から現れた研究者が、不気味な笑みを浮かべる。
「やっと手に入った……“本物”の器だ」
子供たちの泣き声が遠くから響いていた。
その声に導かれるように、ノアは自分の立つ場所を理解する。
――ここは、絶望の巣。
二度と陽の光が届かない場所。
けれどノアの胸に宿ったのは、恐怖だけではなかった。
震えながらも、彼女は強く唇を噛みしめた。
「……わたしが、守らなきゃ」
薄暗い石牢。
鉄格子の向こうには、震える子供たちと、傷だらけの魔物たちが押し込まれていた。
小さな嗚咽と、弱々しいうめき声が重なり、空気は絶望で満ちている。
そんな中、鎖で繋がれたノアが、ゆっくりと膝をついた。
自分も疲弊しているはずなのに、彼女は微笑みを浮かべて言った。
「……大丈夫。……わたしが……いるから」
子供たちが顔を上げる。
大きな瞳には涙が揺れていた。
「でも……怖いよ……痛いの、やだよ」
「みんな……消されちゃうって、言ってた……」
ノアはその小さな手を、そっと自分の手で包み込んだ。
指先は震えていたが、声は驚くほど穏やかだった。
「……消えさせない。
……だって、絶対に……わたしが外に連れ出すから」
魔物たちも、耳をぴくりと動かす。
傷つき、鎖に繋がれたその瞳に、かすかな光が戻る。
ノアは一人ひとりに視線を合わせながら、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「ここは怖いところだけど……わたしと一緒なら大丈夫。……
必ず……光の下に戻れる……
だから……泣かないで。
……その涙……外に出た時の“嬉しい涙”に……取っておこ?」
子供たちは涙を拭い、魔物たちは静かに喉を鳴らした。
ほんの少しだけ牢の空気が変わった。
そしてノアは心の奥で強く誓う。
――必ず、守り抜く。
たとえ自分ひとりが残されたとしても。
ギギ……と重い扉が開く。
黒衣の研究者たちが無機質な目で牢を覗き込み、無造作に子供や魔物を指差した。
「……こいつと、あれと……ついでにそこの二匹もだ」
「実験材料にはまだ余裕がある。早く連れて行け」
鎖の音とともに、子供たちが恐怖に震える。
「やだ……やだよ……!」
「いやぁ……行きたくない……!」
魔物たちも低く唸るが、力尽きて抗えない。
研究者が冷たい手で子供の腕を掴んだその瞬間――
「待って!」
ノアが鎖を引きずりながら前に出た。
彼女の瞳は揺らぎもせず、まっすぐに研究者を射抜いていた。
「その子たち……放して。
……わたしが……全部受ける!」
牢の中が静まり返る。
子供たちの泣き声すら止んだ。
研究者の目が細められる。
「……全部、だと?」
ノアは息を呑み、それでも声を震わせず言い切った。
「……どんな実験でもいい……
だから……この子たちに……二度と触らないで」
鎖に繋がれた身体をかばうように広げ、子供たちと魔物の前に立つ。
その背は小さくても、決して退かない盾のようだった。
「……無謀だな」
研究者の口元に、嘲笑が浮かぶ。
だが子供たちは震える手を伸ばし、ノアの背を掴んだ。
「……だめだよ……!」
「いっちゃやだ……!」
ノアは振り返り、微笑んだ。
その笑顔は泣きそうに歪みながらも、どこまでも優しかった。
「……大丈夫……
わたし……が受ければ……みんなは守れる」
――その瞬間、彼女は牢の中の全員にとって、唯一の希望になった。
その瞬間から、ノアの地獄の日々は始まった。
鉄の台の上。
無数の魔法陣が刻まれた拘束具が、ノアの四肢を締めつけていた。
血のにじむ腕、焼け焦げた皮膚、途切れ途切れの呼吸。
「……まだ、動ける……」
唇を噛みしめ、彼女は意識をつなぎ止める。
魔力を限界まで搾り取られ、体内の血管が焼けるように痛む。
それでも彼女は決して悲鳴を上げなかった。
――自分が泣けば、子供たちがもっと怖がるから。
冷たい視線をした研究者たちが、書き物を続けている。
「魔力抵抗値、予想以上に高いな……」
「これなら、次の融合実験の母体としても使えるかもしれん」
ノアは震える指先を握りしめ、心の奥で必死に繰り返す。
(大丈夫、大丈夫……わたしが全部受ければ、みんなは……)
その時だった。
――研究者たちが別室に呼ばれ、実験場から数人が出て行った。
ほんの一瞬。
監視が薄れる。
ノアの呼吸が荒くなる。
「……今しか……ない」
全身の魔力をかき集める。
焼けるような激痛が走り、意識が飛びそうになる。
けれど彼女は、牢に繋がれた子供たちと魔物の怯えた瞳を思い出した。
――「大丈夫……守る」
その約束を胸に、ノアは小さく震える手をかざした。
「……転移魔法」
檻を縛る鎖が軋み、空間が裂け、眩い光が牢を包み込んでいく――。
檻が開き、空間が裂け、
魔塔の外へと導かれる。
逃げる子供たちを見ながら、
ノアは最後に笑った。
――「……絶対、外に……出してあげるね」
そして、彼女は一人その場に残り、
魔塔の奥、さらに深くへ連れて行かれた。
冷たい床。
染み付いた血の匂い。
何度も吐いた。
隠れて泣いた日も、あった。
でももう、涙は出ない。
「……始めるぞ」
無感情な声とともに、器具が並べられる。
目隠しをされたまま、ノアの手足は拘束される。
剣。焼き鏝。注射針。
何もかもが、痛みを“探るための道具”。
「“蘇生魔法”を使える可能性があると仮定する。
限界まで殺してやれば、本能的に発動するかもな」
実験員が笑った。
乾いた、まるで“人間じゃない”音だった。
ノアは何も言わない。
声を出したら、壊れてしまいそうだった。
焼かれる。
裂かれる。
潰される。
痛みはもう、日常だった。
でもそれ以上に――
“絶対にこの力を見せちゃいけない”
それだけが、ノアの中で燃えていた。
逃がした子たちは、もうここにはいない。
でももし自分の力がバレれば、
また新しい子たちが“捕まえられる”理由になってしまう。
――「あの子は蘇生魔法を持ってる。
あいつの血を使えば、また新たに色々実験しがいがある。」
そう言われたら、また“連れ戻される”。
だから――ノアは絶対に力を使わなかった。
痛くても。
死にかけても。
気を失っても。
意識を繋ぎ止めて、
“死んだふり”すら覚えた。
ある日。
実験室の記録官が呟いた。
「毎回ギリギリで生きてるが……
本当に、ただの高魔力個体か?
蘇生能力があるなら、もっと目立つ反応があってもいいが」
「まぁ、いずれ分かるだろ。
限界まで壊せば、本性が出る」
その言葉に、ノアは歯を食いしばる。
(……出さない……)
(誰がなんて言っても……絶対に……)
何もかもが痛くて、
何もかもが怖いけど、
それでも心の奥で、ひとつの光を守っていた。
アゼルの声。
「もう、離さない」って言ってくれた声。
その声だけが、
ノアの“壊れそうな魂”を繋ぎ止めていた。
――誰にも見せないまま――
まだ奥底で、静かに燃えている。
その時が来るまで。
ほんとうに“誰かを救う時”が来るまで。