その夜――アゼルは眠っていた。
いや、眠ってしまった。
疲労と悔恨が心を飲み込んだ、久々の夜。
静かだった。
空は黒い霧のように、何も映さない。
だがその中で――
声が、した。
――「……ゼル……アゼル」
懐かしい響き。
やわらかく、でもどこか震えている。
――「……ここにいるよ……ずっと、ここに……」
アゼルの心臓が跳ねる。
どこか遠くで、小さな光が揺れている。
――「助け……皆に会いたいよ……」
空間が歪む。
強い魔力が引き寄せられるように、
⸻
そこは、重く湿った空間。
天井も壁も石でできた、地下のような部屋。
魔力の封じられた紋章。
錆びた鉄の鎖。
血の滲んだ床。
その中心で――
ノアが、鎖に繋がれていた。
服は破れ、体中に傷。
片目が閉じられ、唇は青白い。
けれど――それでも、彼女は微笑んでいた。
「……だいじょうぶ……私は、待てるよ……」
⸻
その光景に重なるように、アゼルの脳裏に“過去”が流れ込む。
まだ塔の侵攻が始まった直後。
ノアは、必死に子供たちの前に達守ろうとしていた。
追っ手の使徒が迫る中――最後の力で、子供たちを外の光へと押し出した。
「走って……振り返らないで……!」
叫んだその瞬間、背後から鎖が飛び、彼女の四肢を絡め取った。
冷たい鉄が肉に食い込み、ノアは石床に引きずり倒される。
逃げた子供たちの声が遠のく。
暗闇の奥から、嗤う気配が忍び寄る。
血に濡れながらも、ノアは顔を上げ、最後に小さく呟いた。
「……お願い……守って……」
――その祈りと共に、鎖は彼女を闇の中へと引きずり込んだ。
⸻
再び、現在の幻影。
アゼルの脳裏に、“場所”が浮かび上がる。
灰の地を通り死の森の奥。
かつて封印された、塔の影が落ちる場所。
今まで何度も探しても見つからなかった“魔塔への侵入口”。
それが、はっきりと見えた。
――「いつかきっと、……迎えに……来て……信じてる……アゼル……」
彼女が最後に呼んだその名で、
アゼルの目が、ぱちりと開いた。
⸻
夜明け前。
アゼルはすぐに陛下とレオンたちを集めた。
まだ誰も目を覚ましていない時間。
だがその目には、もう迷いがなかった。
「……ノアの声を聞いた。
場所も見た。魔塔への入り口の座標が――浮かんだ」
誰も笑わなかった。
誰も疑わなかった。
そこにいた全員が、同じ思いで立ち上がった。
レオンは剣を腰に差しながら頷いた。
「夢ではない。
お前が繋がっているなら、それは“導き”だ……迷う理由はない。
俺たちは家族を守るために剣を持ったんだ。
――必ず取り戻す」
豪快に机を拳で叩きながらカイルが話す。「よっしゃあ!あの魔塔、ぶっ壊してノアを連れ帰ってやる!待ってろ、ノア!」
眼鏡を押し上げ、冷静に地図へ視線を走らせるエリオ。
「……魔塔の構造、記録は曖昧だ。
だがアゼルの“視た座標”をもとに作戦を立てれば勝機はある。
合理を捨ててでも、今回は必ず成功させる」
普段は温厚なセリスでさえも声をあげた。
「……あの子をっ……そんな場所に一人で置いておけない!
今度は私が……絶対に守る!」
まだ幼さの残る声で、それでも必死に強がるリアム。
「僕だって戦う! 兄さんたちだけに任せない!
ノアは僕の命を救ってくれた……だから、必ずず助けるんだっ!」
剣の柄を握り締めながら、低く。
「……ノア。
今度は俺が選ぶ。
お前を助けるためなら、世界を敵に回しても構わない」
アゼルと兄弟たちの決意を聞いた国王は、しばし沈黙した。
重い空気を切り裂くように、低く力強い声が響く。
⸻
「……お前たちの目に迷いはないな。
父としては、子を戦場に送り出すなど心が裂ける思いだ。
だが――王としては誇らしい。
ノアは王家の家族だ。その命を取り戻す戦いこそ“正義”だ。
行け、我が息子たちよ。
恐れるな、退くな。
この王国すべてがお前たちの背を押すだろう。アゼル息子達を頼んだ。」
⸻
兄弟たちは膝をつき、同時に答えた。
「はっ――!」
その声が、王城の石壁を震わせるほどに響き渡った。
こうして、魔塔奪還作戦は密かに動き出す。
この先に何が待っていようと、彼らの心はただひとつ。
――「たった一人を、必ず救う」
それは王国騎士たちの戦いではなく、ひとりの少女の、
「待っている」想いへの、誓いだった。