目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第6話 前編

世界は、音も色も失った。


目を開けても、暗闇の中で霞んだ光が揺れるだけ。

いや――もしかしたら、自分はもう「見よう」としていないのかもしれない。


「……」


どれくらい、ここに囚われているのだろう。

日も、月も、季節さえも、とうにわからなくなった。

時間の感覚は削ぎ落とされ、残ったのはただ、永遠に続く痛みの記憶だけ。


錆びついた鎖が首に食い込み、

両手両足は冷え切り、血が巡っているのかさえ曖昧だった。


今日もまた傷は抉られ、癒え、そしてまた裂かれる。

「回復」と「破壊」を延々と繰り返す実験。

肉体は壊れても蘇り、蘇っても壊される。

痛みに慣れたはずなのに、苦しみだけは決して消えなかった。


――いや、むしろ増えていた。

心の奥底で、叫びは積もり積もっていく。


“助けて”

“やめて”

“もうやめて”

“誰か……お願い……”


けれど、声に出すことはできなかった。

その一言で、自分ではない誰かが次に連れていかれる。

――あの檻の中で怯えていた子供たちや、弱った魔物たちが。


だから、ノアは一度も言葉を吐かなかった。



朦朧とする意識を無理やり繋ぎ止め、

「何も知らない子供」を演じ続けた。

どれほど壊されても、ヘタに力を使わないように。

自分が壊れていくことでしか、他の誰かを守れなかったから。


それが、助かった子たちを守る最後の盾。

それが、自分に残された唯一の役目。


……そう思っていたのに。


「……もう……疲れちゃったな……」


思わず、声が漏れた。

それは自分でも驚くほど小さな、掠れた呟きだった。


誰にも届かない。

空っぽで、冷え切った石の部屋で。


それでも、その名だけはどうしても零れてしまう。


「……アゼル……」


アゼルの名を呼んだ瞬間、

張り詰めていた心の奥の壁が、ほんの少しだけ軋んで崩れた気がした。


「……ずっと、待ってるよ……」

「いつか、会える……かな……」


目を閉じた。

息が、浅くなる。


けれど――


ふと、胸の奥に光が灯った。


(あそこ……に、穴を……)


魔塔の一角。

研究者の目が届かない隙を見つけて、

少しずつ、力を使って “外への道” を開けていた。


まだ完全じゃない。

でも、もしいつか気づいてくれたなら――


(誰かが……来てくれるかもしれない……)

(アゼルが……見つけてくれるかも……)


けど、それでも。

今の自分にはもう――


心を、支えるものが少なすぎた。


「会いたいな……」

「ほんとは、みんなの声……聞きたい……」


乾いた涙が、一筋、頬を伝った。


それは痛みじゃなかった。

苦しみでも、怒りでもなかった。


――ただ、

「もうすこしで折れそうな、祈り」 だった。


世界がまた、暗くなった。

でもその奥で、ノアの胸の奥は微かに熱かった。


“どこかで誰かが、自分を呼んでいる” 気がした。


まだ、終わっていない。

でも――終わってしまってもいいと思えるほど、静かだった。









ひとりの少女を救うため、皆が剣を取る。


魔塔へと向かうルートはただ一つ。

“死の森”を抜ける魔物の領域ーーそこに、道が拓かれている。


アゼルと王国の騎士たちは、

魔物の領域に踏み込む緊張と覚悟を胸に、静かに進軍を始めた。


だがーーその先に、立ち塞がる影があった。


地を揺らす足音。

重く響く咆哮。


そして、喋った。


「止まれ……貴様ら、何者だ……」


黒い毛並みの巨大な獣。

人の言葉を話すーー高位魔物。


その背後にも、数十体の魔物たち。

牙を剥き、怒りの炎を灯す瞳が、

まっすぐアゼルたちを見据えていた。


「お前達も……魔塔の人間の仲間か?」

「もう誰にも……“あの子”を……けがさせはせぬ!!」


地鳴りのような怒り。

咆哮の中に、悲しみと恐怖、そしてーー愛が滲んでいた。


アゼルは剣を下ろした。

そして、まっすぐ目を見て言った。


「ノアを、助けに来た」

「お前たちの“あの子”を、奪い返すためにここにいる」


その瞬間、空気が変わった。


魔物たちがざわめき、

高位魔物の目が揺れる。


「……本当、なのか……?

 あの子は、お前達の仲間なのか?」




黒い獣の瞳が揺れる。

けれど次の瞬間、牙を剥き出しにして吼えた。


「――嘘をつくなッ!!」


大地が震える。

その咆哮には、怒りと悲哀が絡み合っていた。


「人間どもはいつもそうだ!

 我らを捕らえ、鎖で繋ぎ、好き勝手に弄んできた……!!

 あの子も……ノアも……!

 すべては人間の欲のために傷つけられた!」


一歩、巨体が前へ踏み出す。

その迫力に、後方の若い騎士たちが思わず息を呑む。


「我らを信じさせようと、甘い言葉を吐くのか!?

 また“利用”するために!!」


魔物たちが一斉に牙を鳴らす。

炎を纏うもの、鋭い槍のような角を構えるもの。

空気は、今にも爆ぜそうな殺気に満ちていた。


だが、アゼルは剣を抜かなかった。

むしろその刃を地へと突き立て、声を張る。


「俺は騙さない!」

「ノアは俺の、命よりも大事な……家族だ!」


叫びは、静かな森を震わせるほど強く響いた。


「俺たちは、あの子を取り戻すためだけに来た!

 もしこの剣が嘘を吐くためのものなら……この場で喉を貫いてみせる!」


剣先が地にめり込む音が響く。

アゼルの瞳には一片の揺らぎもなかった。


魔物たちの咆哮が止む。

黒い獣の眼が、深い迷いと怒りの狭間で揺れていた。




剣を突き立てたアゼルの言葉に、森は静まり返った。

それでも魔物は牙を剥いたまま、喉奥から低い唸りを漏らす。


「……信じられるものか……!

 人間の言葉など、何度裏切られてきたと思っている!!」


再び周囲の魔物たちが身を低くし、攻撃の姿勢を取る。

その殺気に、若い騎士たちの喉がごくりと鳴った。


その時だった。


「――っ、やめてくれ!」


震える声で、一人の少年が前に飛び出す。

リアムだった。


「お願いだ……!! 俺たちは本当に、ノアを助けに来たんだ!!」

「ノアは……ノアは、俺の大切な家族なんだ!」


魔物の鋭い視線が、リアムへと突き刺さる。

だがリアムは膝を震わせながらも、一歩も退かなかった。


「ずっと1人だった僕に外の楽しさを教えてくれた……!」

「笑って、怒って、泣いて……僕たちにとって、世界で一番大切な家族なんだ!」


声は震え、涙が滲む。

それでも必死に吐き出す言葉は、刃よりも強かった。


「だから……だから、どうか信じてくれ!」

「僕たちは誰よりも、あの子を守りたいんだ!!」


少年の叫びが、森に響いた。

その純粋さは、剣より鋭く、炎よりも熱く。


魔物たちの動きが、止まった。

魔物の瞳が揺れる。

怒りに覆われたその奥に、わずかな迷い――そして、共鳴の光が灯る。


「……お前……」

「本当に……あの子を……」


声は低く、震えていた。




沈黙。


その場を覆っていた緊張が、息を呑むほどの静寂に変わった。

やがて――黒き魔物は、低く、深い唸りを漏らした。


「……そうか……ならば……」


振り返り、背後に控える魔物たちを見渡す。そしてまた前を向き直し叫んだ。


その瞳に宿るのは、怒りでも憎しみでもなく――誇り。


「剣を取れ!!」

「我らが守るべきものは、あの子だ!!」

「いまこそ立ち上がれ!!」


大地を震わす咆哮が、森を切り裂いた。

獣の吠え声ではない。

それは、種族を越えた意思の宣言だった。


「――もう一度、我ら魔物が“意思”を持つために!」


その叫びに応じ、森の奥からさらに魔物たちが姿を現す。

角を掲げる者、翼を広げる者、鋭い爪を振りかざす者。

そのすべてが「敵ではなく仲間」として、今ここに立つ。


王国の騎士たちが驚愕の息を漏らした。

だが次の瞬間には、誰もが剣を掲げる。

人も魔物も、互いの違いを超えて――ただひとりの少女を救うために。


「進めえええッ!!!」

レオンの号令と共に、歓声と咆哮が混じり合った。




死の森を抜けた先――断崖絶壁に、不自然な亀裂が口を開けていた。

淀む魔力が空気を歪ませ、触れるだけで肌が粟立つ。

そこはまるで、世界そのものが拒絶しているかのような異界の入口。


しかし、アゼルの胸は確信で震えていた。

これは間違いなく――ノアが残した“道標”。

彼女が命を削り、ただ一つ願った出口。


「……ここだ」


アゼルは低く呟き、剣を構える。

刃先が魔力の奔流に触れ、青白い光を散らした。


レオンが隣で息を呑む。

背後では、王国の騎士たちと魔物たちが互いの列を崩さずに並び立つ。


誰もが恐怖を抱いていた。

それでも一歩を踏み出す。


「行こう」

「ノアを、取り戻すために」


その声を合図に、剣と爪と爪牙を携えた“世界の意志”が、

異界の門へと踏み入った。









この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?