それは、生きて帰った者などいないと言われる、実験区画の中心核。
石壁に呪術が走り、重苦しい魔力が渦巻くその空間の中ーー
ノアは静かに、立たされていた。
体は拘束されていない。
けれど、足も手も、自分のものではないように動かない。
魔力の枷が、魂そのものを縛っていた。
「ようやく完成に近づいたな……」
「この子の“中核”に眠る力……蘇生魔法と破壊魔法の両方……」
魔塔の“最高執行官”と呼ばれる男が、歪んだ笑みを浮かべていた。
「この世に“真の神”を作り出す、その器に相応しい。
……さあ、始めようか。最終段階の“融合実験”を」
周囲には、実験に使われた子供や魔物の“成れの果て”。
いびつに融合され、形を失った命たちが、
壁に張り付けにされている。
ノアの瞳から、光が完全に消え美しい金色だった瞳は色の持たない漆黒に変わり涙の代わりに血が流れていた。
⸻
突然、空気が震える。
ノアの身体から放たれる、凶暴で純粋な魔力の奔流。
その場にいた魔塔の人間たちが、次々と吹き飛び、壁に叩きつけられる。
目を見開いた執行官が叫ぶ。
「……馬鹿な、まだ抑えていたのか!?
この力……これは制御できるレベルではーーッ!!」
ノアの口が、静かに開いた。
「……もう……イヤ……」
その声は、泣き声に似ていた。
「もう……誰も傷つけないで……
誰も……壊さないで……」
そしてーー
「……みんな……消えちゃえ……」
空間が揺れた。
黒と白が入り混じる純魔力、暴走。
塔の壁が音を立てて崩落し始める。
⸻
扉が爆発音と共に吹き飛ぶ。
駆け込んできたのは、アゼル。
「ノアッーー!!」
だが、ノアは振り向かない。
いや、“アゼルが誰か”すら、わからなくなっていた。
敵か味方か。
知らない人間か、また痛みを与える者かーー
“見分けられないほど、壊れてしまっていた。”
ノアの手が、一瞬にして魔力を帯びる。
だが、アゼルは止まらない。
(来い……撃てばいいーー)
「ノアーーッ!」
その瞬間、魔力の槍がアゼルの胸を貫いた。
衝撃に吹き飛ばされ、壁に叩きつけられるアゼル。
だが彼は立ち上がった。
血を吐きながら、よろよろと歩み寄る。
「ノア……ノア……お前が、どんな姿になってても……」
彼は、手を伸ばした。
「俺は、ずっとお前の味方だ。」
その言葉が――
ノアの凍った心に、ひびを入れる。
「……アゼ……ル……?」
「帰ろう、ノア」
「……一緒に。」
アゼルは、血塗れのその腕で、ノアを抱きしめた。
ノアの体が震える。
ぬくもり。
鼓動。
声。
「……まもってくれて……ありがとう……」
「……ずっと……待ってた……」
ノアの瞳に、光が戻る。
⸻
崩れた魔塔の実験室。
暴走した魔力の余波で壁は砕け、空間は歪み始めていた。
ノアは、アゼルの胸に顔をうずめたまま、
小さく震えていた。
「……ごめっ……ごめんなさい……っ」
押し殺したような嗚咽。
それでも堪えきれず、ぽろぽろと涙がこぼれる。
「私……アゼルに……傷つけたのに……っ」
「怖くて、わからなくてっ………でも……アゼルだって、気づいたのに……!」
アゼルは苦笑しながら、血の滲んだ手でノアの頭を撫でていた。
「痛いのは……正直なところだけど……」
「でもそれより、ノアが戻ってきてくれたことの方が、ずっと嬉しいんだよ」
ノアはぎゅっと目を閉じて、首をふる。
「みんな……怪我してる……」
「私が……守らなきゃ……」
そして、ノアは静かに立ち上がった。
ボロボロの服、傷ついた体。
それでも――その瞳は、確かに“希望の光”を取り戻していた。
ノアは両手を胸の前に重ね、そっと目を閉じる。
そして――そっと歌い始めた。
それは、言葉を超えた“祈り”だった。
柔らかな旋律。
どこか懐かしく、そして切ない音色。
空気が静かに震え、
床に崩れていたレオンや、騎士たちの体に光が降りる。
「怪我がっ!……痛みが……引いてく……」
「まさか……これほどの癒しを……」
癒しの魔法というよりも、
魂に寄り添うような、深い導きの力だった。
魂に寄り添うような、深い再生の力だった。
ノアの魔力が、皆の傷と心の“痛み”までも癒していく。
その光景を、魔塔の最高執行官は恐怖に満ちた目で見ていた。
「バケモノめ……! 貴様は実験体に過ぎん! その力は我々のためにあるんだッ!!」
ノアは歌い終え、ゆっくりとその男を見据えた。
「私は、誰のモノにもならない」
その声は静かで、でもはっきりとしていた。
「私がこの力を使うのは……」
「“守りたい”って思えた人たちのためだけ——!」
アゼルが横に立ち、剣を構える。
「……終わらせるんだ。全部——!」
ノアは頷き、彼の手を取り、魔力を重ねる。
アゼルの剣に、ノアの魔力が纏う。
“破壊と再生”——矛盾した力が混ざり合い、純白の剣となって閃く。
執行官は、自らに埋め込まれた魔物の核を露出させ、異形の姿に変貌する。
腕が伸び、背中から羽が裂け、塔全体を崩すほどの魔力を解放して襲いかかってくる。
だが、アゼルとノアは怯まない。
ノアが前衛を援護し、アゼルが剣を振るう。
ノアの蘇生の光とアゼルの意志の剣が交差し、ついに——
執行官は、さらに核を抉り出すようにして胸を裂いた。
赤黒く脈打つ“魔物の核”が露わになる。
同時に、背骨が盛り上がり、腕が裂けて複数の節足のような肢が飛び出した。
顔の皮膚が剥がれ、頭蓋の半分がむき出しになり、無数の牙が咲き乱れる。
「これが……私を“造った”者どもへの、最高の証明だッ!!」
咆哮とともに、塔全体が震えた。
巨腕の一撃で石柱が粉砕され、羽ばたきだけで衝撃波が走る。
異形と化した執行官は、すでに人の形を留めていなかった。
アゼルは剣を構え直すが、圧倒的な質量と暴力に押し潰される。
防御が間に合わず、巨腕に叩きつけられ、床に激突した。
血が噴き、鎧が砕け、呼吸が詰まる。
「アゼル!!!」
ノアが駆け寄り、必死に両手をかざす。
彼女の光がアゼルを包み込み、砕けた骨をつなぎ合わせる。
しかし、その瞬間を狙って執行官が襲いかかる。
裂けた背中から伸びる触手が、ノアを貫こうと迫る。
「ノアッ!!」
アゼルは咄嗟に身を投げ出し、剣を横薙ぎに振るった。
火花が散り、触手が切り落とされる。
だが代償に、肩から胸へ深々と裂傷を負った。
「ぐっ……はぁ……!」
鮮血が噴き出し、剣が手から滑り落ちた。
「ア……ゼル……?」
ノアの声が震える。
執行官は嗤った。
「無様だな、人間……お前が信じる力など、この塔では無力だ」
アゼルは、崩れ落ちる意識の中でただノアの名を呼んだ。
「……ノ、ア……逃げろ……」
その言葉が、ノアの胸に火をつけた。
涙が溢れ、喉が裂けるほどの叫びが響く。
「いやぁぁぁぁッ!!! アゼルを……傷つけるなぁぁッ!!!」
瞬間、ノアの身体から光が溢れ出した。
それはいつもの優しい癒しの輝きではない。
怒りと悲しみによって増幅された、灼熱のような神聖の力ーー
だが、その輝きに混ざるようにして、黒い影が迸った。
光と闇。
相反するはずの二つの力が、ノアの胸から同時に解き放たれる。
純白の光は敵を焼き尽くす慈悲であり、
漆黒の闇は存在そのものを呑み込む憎悪だった。
光と闇が渦を巻き、塔を震わせる。
聖なる輝きと忌まわしい黒炎が一つの奔流となり、執行官を押し包んだ。
巨躯が悲鳴を上げる。
「な……に……この力……光と……闇だと……!? 馬鹿な、人間ごときが……!」
ノアの瞳は燃えていた。
愛ゆえの怒り、喪失の恐怖、そして守りたいというただ一つの願い。
そのすべてが、矛盾すら超えて力に変わっていた。
塔を揺るがす轟音。
ノアの身体から放たれる光と闇は、互いを打ち消すことなく絡み合い、灼熱と奈落が同時に渦を巻いていた。
「うおおおおおおおお!!!」
執行官の巨腕が振り下ろされ、黒い刃と化した爪が大地を抉る。
だがノアは退かない。
「アゼルを……私の大切な人達を……傷つけさせない……!」
その叫びと共に、光が執行官の爪を弾き、闇がその腕を腐蝕する。
まるで天と地の両極から同時に裁きを受けるかのように、執行官は咆哮を上げた。
「ぐぅぅぅ……!! こんな……力……人間が持っていいはずが……!!」
ノアの髪は光に照らされ白銀の炎のように揺れ、影に溶けるように黒も滲んでいた。
――その光景を、血に塗れ、膝をついていたアゼルは見上げていた。
胸から血が流れ、視界も霞む。
それでも……
「ノア……お前が……戦ってるのに……俺だけが……倒れていられるか……っ!」
震える腕で剣を支え、血まみれの体を無理やり起こす。
一歩、また一歩。
限界を越えた身体が、それでも彼女に引き寄せられるように前へ進む。
ノアが振り返った。
涙で潤む瞳。
その手が、伸ばされる。
アゼルは、その手を握った。
「一緒に……ノア」
「……うんっ!……」
光と闇の奔流がノアから迸り、アゼルの剣を包み込む。
聖なる輝きと漆黒の力が、ひとつの刃として形を成した。
二人が並び立つ。
ボロボロで、傷だらけで、それでも決して折れぬ心を携えて。
「俺たちのすべてで……お前を倒す!!」
「……倒すっ!」
二人の声が重なった瞬間、剣と光闇の奔流が一体となり、巨大な閃光の刃となって執行官へと突き立った。
執行官が絶叫する。
「やめろぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!」
光と闇の渦が爆ぜ、塔全体を揺るがす。
その中心で、アゼルとノアは互いの手を強く握り、決して離さなかった。
閃光と闇渦が暴れ狂い、塔そのものを崩すほどの衝撃が広がった。
執行官の巨体がその中でのたうち、異形の翼を引き裂かれ、伸びた爪が砕け散る。
「ぐ……ぎ、ぎゃああああああああああッ!!!」
断末魔が、塔の奥底に響き渡った。
体を覆う魔物の殻が剥がれ落ち、露出した魔核がひび割れていく。
それでもなお、執行官は這い寄ろうとする。
「お、俺は……選ばれた……塔の意思そのもの……こんな……人間ごときに……!!」
アゼルとノアは視線を交わす。
血に濡れた剣を、ノアの光と闇が包み込み――一つの“決断の刃”となる。
「――終わりだ」
二人の声が重なった瞬間、刃が閃き、魔核を貫いた。
轟音。
爆ぜる光。
闇の霧が四散し、塔中に響いていた邪悪な鼓動が、ついに途絶えた。
執行官の巨体が崩れ落ちる。
その顔は苦悶でも憎悪でもなく、どこか安堵を湛えていた。
やがて黒い灰となり、跡形もなく消えていく。
静寂。
重苦しい空気が、一気に晴れた。
アゼルは荒い息を吐きながら、膝をつきかける。
ノアがすぐに支え、その手を握り返した。
「……アゼル」
「……ああ……勝ったな」
二人は互いの手を強く確かめ合いながら、燃え尽きた戦場を見渡した。
静けさが戻る魔塔の最奥。
「ねぇ……アゼル……」
「私……やっと、自分の力……好きになれた……かも……」
「……うん。お前の力は、綺麗だよ」
「また……みんなに……ただいまって……言えるかな」
「言えるさ。一緒に帰ろう、ノア。」
物語はまだ続いていく。
けれど、この戦いは確かに終わった。
ノアの力が、人を傷つけるためのものではなく、
守るための光だったことを証明した、最初の勝利。