記憶とは、生きること。
忘却とは、殺すこと。
ならば、書け。書いて、遺せ。君がここにいたということを。
八坂幸太郎は今日もまた、筆を取る。誰かが読み、誰かがその真実に目を覚ます日を信じて。
そして、忘れられた者たちのために。
少女の声が、図書館の静寂に滲んでいく。
「私は、削除された人間の記憶の残りかす。君が読んだ絶版書の中に、たまたま残されていた私のかけらなの」
幸太郎は、目の前の少女が人間でないことを、薄々感じていた。彼女の存在は物理法則に逆らい、呼吸の痕跡も体温もない。けれど、その瞳だけは、まるで何百年も苦しんできた魂のように、深く澄んでいた。
「君は……誰の記憶なの?」
少女は一瞬、答えをためらうように目を伏せた。そして、小さな声でこう言った。
「君の妹よ」
心臓が跳ねる音が、図書館の静けさに溶けた。
自分には、兄妹などいない。ずっと一人っ子として育てられた。だが、胸の奥にひっかかっていた奇妙な喪失感、それが、この一言で輪郭を持った。少女の目元と、自分の母に似たあの若い顔が重なったとき、記憶の蓋が音を立てて開いた。
は昔、誰かと手を繋いで、夕焼けの坂道を歩いた記憶。母がふと目を伏せ、「あなたには言えないことがあるの」とつぶやいた言葉の重さ。
「なぜ、なぜ消されたんだ?」
「私の出生は、父の遺伝情報が理由で非承認とされた。生まれた時点で、削除対象に指定されていたの。でも母は――私を産んだ。そして私は、生きて、死んで、記録を消された」
淡々と語るその声に、憎しみも怒りもない。ただ、記録にすら残らなかった存在の、深い悲哀だけが漂っていた。
少女は手を伸ばし、古いファイルの束を指差す。
「この禁書たちは、削除対象の記録の抜け殻。誰も読まなくなった本の中に、かすかに残った私たちの影。君は、その痕跡を拾い集めることができる最後の存在」