彼の視線はリビングを素早く見回したが、奈々未の姿は見当たらず、思わず眉をひそめた。
まさか、二階にいるのか?南はネクタイを少し緩め、足早に階段を上がった。
しかし、寝室も他の部屋も、奈々未の気配はまったくなかった。その瞬間、南はようやく悟った。奈々未は、そもそも帰ってきていなかったのだ。
送ったメッセージを見ていないのか?南は携帯を取り出し、奈々未に電話をかけた。二人が喧嘩している時に、自分から電話をかけるのはこれが初めてだった。今回は自分からメッセージも送ったし、電話もかけていた。
もうそろそろ、彼女も冷静になっているはずだ。しかし、奈々未は電話に出なかった。南の顔色は一気に険しくなった。
メッセージも返さず、電話も出ない。強気になったものだ。
南のプライドが、二度目の電話をかけさせることはなかった。もし本当に用事で出られなかったのなら、不在着信を見て、奈々未の方からかけ直してくるはずだ。かけ直してこないなら、わざと無視しているということだ。
本当にわざと無視しているのか、見てやろうじゃないか。
——
奈々未は、まさにわざと出なかった。
漢方クリニックでの仕事を終えた後、奈々未は夏江と一緒にカフェレストランで食事をする予定だった。夏江が白いBMWで迎えに来て、奈々未は車に乗り込んだ。
奈々未は小走りで車に駆け寄り、ドアを開けて乗り込んだ後、にっこりと笑いながら「どのくらい待った?」と聞いた。
「今来たところだよ」と夏江も笑い、「美人のためなら、どんなに待ってもいいよ」と冗談めかして答えた。
奈々未も笑いながら、「わざわざ迎えに来てくれてありがとう、世界一の美人さん~」と返した。
奈々未にとって、夏江は一番の親友だ。共にカフェを経営するほどの仲で、利益のことで揉めたことも一度もなかった。お互いのために惜しみなく尽くし、相手が一日でも早く大金持ちになることを願っている。
シズクカフェに着くと、奈々未と夏江は車を降りて、二階の個室へ向かった。個室に入ろうとした時、南と仁美にばったり出くわした。二人の姿を見た瞬間、奈々未の笑顔は一瞬で消えた。
夏江は怒りを抑えきれずに、「なんでここにいるの?よくも顔を出せたわね。ここはあなたたちが来る場所じゃないわよ!」と詰め寄った。
南は冷ややかな目で奈々未を見つめ、彼女がわざとメッセージも電話も無視していることを確信した。
ふん、素直な小ウサギが反抗するようになったか。
これは良くない兆しだ。南は淡々と奈々未に手招きし、「こっちに来い」と言った。
いつもなら、彼が指を動かすだけで奈々未は従って近づいてきた。だが今回は、奈々未はその命令を完全に無視した。
彼女は怒る夏江に「入ろう、食事しよう。あの人たちは無視していいよ」と声をかけた。
夏江は納得がいかず、二人に向かって皮肉を言った。「よくもまあ、ここで食事できるわね。図々しいにも程があるわ」
仁美は冷笑しながら言った。「そもそも、このカフェを始めることができたのは、南さんが資金を貸してくれたおかげでしょ?うちの南さんがいなければ、今みたいな生活はできていたの?恩を仇で返すなんて、あなたたちこそ図々しいわ。」
「なによ……」
奈々未は言い返そうとする夏江の腕を取り、「もういい、こんな人たちと喧嘩しても時間の無駄よ」となだめた。
こんな相手と言い争うのは、自分を嫌な気分にさせるだけだ。しかも仁美の言っていることも一理ある。
起業資金は確かに南が貸してくれた。もちろん、その後は利子も含めて全額返済した。それに、南が食事に来る時は、いつも無料にしていた。
「うちは商売だから、来る人はみんなお客さんよ。本当はあなたたちに来てほしくないけど、どうしても来たいなら、ちゃんとおもてなしするわ。ただ、帰る時は必ずお会計してね。うちは食い逃げは許さないから」と奈々未は淡々と言い、夏江の手を引いて個室に入った。
最初から最後まで、彼女は南を完全に無視していた。その無視ぶりに、南も痛感していた。彼は無意識に顎に力を入れ、目がさらに暗くなった。
仁美は南の腕にしっかりと絡みつき、遠慮なく言った。「南~、奈々未は本当にひどいよね。南に対してあんな態度、あんな人、南にはふさわしくないよ。」
好き勝手なことを言う仁美に、南は咎めることなく、冷たく笑って言った。「どうせ、拗ねてるだけだよ、長くは続かないさ。そのうち泣いて謝ってくるだけだ。」
結婚式はもう決まっている。自分が急がなければ、焦るのは奈々未のほうだ。いつまで意地を張れるか見ものだな。本当に式をやめるつもりなのか、見せてもらおうじゃないか。
ーーー
今回の食事会は上田武弘が主催したものだった。
上田も南たちと同じような立場で、いわゆる名家の御曹司たちだ。彼らはよく集まって食事会を開いていた。
今回は気の合う仲間を何人か誘い、シズクカフェの個室を予約して、榊原家の後継者の歓迎会を開こうとしていた。
榊原家はこの十数年で急成長し、今やこの国でもトップクラスの名家となっている。そして、その榊原家に幼い頃から海外に出されていた跡取り息子の久司が、ついに帰国して家業を継ぐことになった。
南たちとは子供の頃、よく一緒に遊んでいた仲だ。しかし、久司が十五歳で留学してからは、一度も帰ってきていない。気づけば、もう十二年も経っていた。今や久司も二十七歳だ。南たちも、もう彼の顔を思い出せなくなっていた。
南が仁美を連れて入ってくると、上田たちはすでに集まっていた。南が血の繋がらない姪の仁美をどこにでも連れてくるのを見て、上田は内心で疑問を感じた。
恋人がいて、しかももうすぐ結婚するというのに、どんな場にも仁美を連れてくるのは一体どういうつもりだ?まるで婚約者のように振る舞っているのも、あまりにもおかしいだろう?
「どうして奈々未を連れてこなかったんだ?」と上田はわざとらしく聞いた。
南は気にした様子もなく「連れてくる理由がない」と返した。
「じゃあ、姪を連れてくる理由は?」上田は心の中でツッコミを入れた。ここは大人の集まりのはずだ。もっとも、その“子供”ももう二十歳だが…。
仁美は愛想よく「お兄さん、こんにちは」と笑顔で挨拶した。
上田はそれを制して、「俺たちはそんなに年が離れてるわけじゃないだろう。名前で呼んでくれ。南だけ一世代下に見られるのは困る」と言った。
仁美はもちろん、“お兄さん”なんて呼ぶつもりはなかった。どの男も若くてイケメンで、家柄も良い。“お兄さん”なんて呼んだら、距離ができてしまう。
「じゃあ、武弘って呼んでもいい?」仁美は笑いながら答えた。
本当にこの子は空気が読めないな…。
だが南がいる手前、彼らも無下にはできない。誰かが話題を変えて、「久司が今どんな顔をしてるか、もう分からないな。あとで入ってきても、誰が誰だか分かるかな?」と言った。
武田上一が冗談めかして「みんな黙ってて、久司が何人分かるか試してみよう」と言った。
「でも本当に思うけど、俺たちの中で一番出世したのは久司じゃないか?十年以上海外にいたおかげで、榊原グループのビジネスを世界規模に広げてしまうなんて。今や彼の資産、俺たちみんな合わせても敵わないんじゃないか?」