その年の三月。
近江の国にある安土城にちょっとしたざわつきが生まれていた。
城の主人である織田上総介信長が城内を練り歩くたびに、後ろを少し遅れてついていく黒い影のためである。
九尺の身長、土を固めたかのごとく厚い筋肉、和紙紙のように白い歯並をした大男。チリチリの短く薄い頭髪がまるで僧侶であった。身にまとっているのは信長の従者に相応しい着物であるが、どうにも似合っておらず不格好である。着物と袴を着慣れていないだけでなく、もともとの体格が和装には想定されていないものだからであろう。
ただし、特に衆目を集めて問題となったのは、なによりもこの大男の肌の色であった。
色黒、濃淡などの言葉の表現を遥かに通りこした純粋なまでの黒。例えば強めの炎で時間をかけて炙り続けて炭にでもしなければ、人間の肌はこんなに黒くはならないだろうというぐらいであった。
それが重すぎる朱色の槍を軽々と捧げて、ぴったりと信長に従っているのだ。
この大男に信長がつけた名は弥助。
はるか異国のモザンビークなる国から伴天連ニェッキ・ソルディ・オルガティーノによって連れてこられ、珍しい奴婢として献上された正真正銘の黒人である。
はじめて目にしたとき、信長は小者に弥助の肉体を念入りに水で洗うように命じ、その黒い肌が塗料などによる偽物でないことを確かめさせた。
そして、この世にはこんなにも黒牛を思わせるものが棲んでいるのだなと妙に感心して、オルガティーノに自分へと差し出させた。
弥助と名付け、槍持ちとして連れて歩くようになったのである。
彼の教育係として小姓の森坊丸をつけたところに、信長がかなり本気で身辺に置くつもりであろうことがうかがえた。
坊丸は、小姓頭の森蘭丸の実の弟であり、信長が十代のころから従い彼のために戦死した森可成の息子である。
摂津で三好軍と対峙中に蜂起した石山本願寺の鎮圧という難局を迎えていた信長の背後を狙う浅井・朝倉連合の三万人を千の軍勢をもって宇佐山城で釘付けにして、見事討ち死にした可成は、信長にとって乳兄弟の池田恒興・前田利家と並ぶ、信頼できる家臣であったといえよう。
その遺児をわざわざつけるのだから、付き人としては滅多にない破格の扱いであった。
弥助自身もその厚遇を謙虚に受け止め、真剣に坊丸の指導を受けていた。
城中の廊下で弟による指導にたいして、素直に言うことを聞く弥助を眺めていた蘭丸に、たまたま安土城での謁見を終えたばかりの丹羽長秀が声をかけてきた。
「上様が、また異人を供にしておられるらしいのぉ」
「……また、でございまするか」
蘭丸は首をかしげた。
これまでに聞いたこともない話だったからだ。
「うむ。―――おぬし、もしや三左衛門から聞いておらんのか」
「父からはなにも」
長秀は、信長の最大の武勲である桶狭間の戦いよりも以前、弟である信勝の裏切りを発端とする稲生の戦いからの忠臣である。蘭丸の父可成とも親しく、何十年も轡を並べて戦ってきた同志でもあったため、織田家の過去のことをよく覚えている。
「―――わしがまだ上様の小姓にあがったばかりの頃、上様はよお領内を駆けずり回っておられてな、そのときはいつも変わった異人が付き従っておったのよ。だから、また、と言ったわけじゃ」
「上様が異人を従者にしていた? 今、はじめて耳にしました」
「従者というには少々的外れな気がしないでもないが……まあ、ああやって上様が異人を連れておられると昔を思い出してなんとも懐かしくなるわ」
長秀の声には懐古の響きがあった。
すでに老境に近づいている彼にとっても、それは青春の思い出なのだろう。
目を閉じた長秀の瞼の裏にある想い出には、もう蘭丸が会うことのできない懐かしい父の姿が含まれていると思うと、少しばかり目尻に熱いものが溜まりそうになる。
長秀は白いものの混じった髭を弄りながら、懐かしいものを思い出す遠い目つきをした。
そんな様子が羨ましいとさえ蘭丸は感じた。
「――しかし、奇妙です。長秀さまが小姓になられたばかりというと、上様がまだ那古野城におられたときのことのはずですが、その頃の尾張に異人が参っていたのですか?」
すると、長秀は少し思案する素振りを見せて、
「……そうだな。あやつのことをよく知っておったものどもはもうそれほど生きておらんからな…… 健在なのは、帰蝶さま、勝三郎、又左、三左衛門、ああ一巴もおったな。随分と減ったものよ。―――よし、蘭丸どの、こちらにこい。暇があるのならば、おぬしに話して聞かせてやろう。あの頃の上様……三郎どのと婆娑羅ものの異人、それに眼がくらまんばかりに美しかったあの白馬のことをな」
―――それは、蘭丸の知らない主君の逸話であり、かつて実際に目撃していた長秀にひどい嫉妬を抱いてしまうような、若き信長の胸躍る冒険の話であった……