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第34話 我がキモサベ、信長


 永禄三年五月十二日。


 今川義元が二万五千の軍勢ととも駿府城から出陣した。

 織田家にとって最前線にあたる佐久間大学が護る丸根砦と織田玄蕃の鷲津砦を臨む、沓掛に辿り着いたのは十八日。

 翌日には総攻撃が始まるだろうと誰もが予想していた。

 物見からの報せが清州城の信長に伝えられたのは、陽が落ちてからだった。

 信長は表座敷に重臣たちを集めて軍議を始めた。

 薄暗い燭台の炎だけが頼りの、悲壮感に溢れた軍議であった。

 参加した者たちが、どいつもこいつも昏い顔しているので信長は反吐が出そうになった。

 でてくる案、でてくる情報、どれもがくだらなく、聞くだけ無駄というものばかりで、信長は早々に打ち切ってしまった。

 特に林通勝がだした籠城案にいたっては、結論が出る前に却下している。

 籠城するには援軍の存在が不可欠であるし、そのあてが今の織田にはないのだからという、ある意味では至極まっとうな理由に通勝自身がぐうの音も出なかったほどである。

 いったん、全員を城内の屋敷に引き揚げさせると、信長は帰蝶の待つ部屋にひきとった。


「最後にわたしを抱かれるおつもりですか」


 艶めかしく妻が微笑む。

 覚悟を決めているのか、それとも夫同様にうつけになったのか、誰にもわからない普段通りの態度であった。


「―――丸根を攻めてくるのはあの竹千代らしいぞ。まったく恩をあだで返しおって、許しがたい奴だ」

「まあ、三河の弟君が。それは確かに恩知らずですわね。あとで那古野の冷たい淵にでも叩き込んで差し上げればよろしいでしょう」

「なるほど、それは楽しそうだ」


 どうやら自分に楯突いた弟分の処遇について悩んでいたらしい。

 仕置きに関して帰蝶の案を採用すると、あとは思案する内容もなくなり、目を瞑るとまどろみ始めた。

 数刻経って、飽きずに夫の寝顔を見つめていた帰蝶は、部屋の外に人の気配がしたのに気が付く。


「誰かや?」

『おれ』


 戸を開けると、以前と変わらない婆娑羅な格好をした異人が立っていた。

 酷く髪が乱れている。

 そっと膝を揺すると、信長はすぐに目を覚まして、イサクァを見やる。


「―――来たか」

『嵐が来る。明け方だ。おまえは相変わらず運がいいな、キモサベ』

「当然だ。おれには風がついている」


 飛ぶようにして跳ね上がり、


「陣触れのほら貝を吹きならせ! 具足を出せ! 馬を引け!」


 と、叫び、懐に入れていた扇を開いた。

 帰蝶が待っていましたといわんばかりの笑顔で小鼓を構える。


 人間五十年 化転のうちにくらべれば 夢まぼろしの如くなり 一度生をうけ 滅せぬものもあるべしや……


 舞うこと三度。

 満足げに宙を睨む信長に小姓たちが甲冑を着せ始める。

 そんな彼を帰蝶とイサクァはじっと凝視していた。


『キモサベ』

「なんだ」

『ショショーニとは別の部族だが戦いの前に発する言葉がある。特別に教えてやる』

「言え」

『今日は死ぬにはいい日だ』


 信長は鼻で笑った。


「おれは死なない。いくさの中でおれが死ぬことはないといったのはおまえだろう」


 そう言って、信長は駆けだしていった。

 はじめて会ったときから、あいつはいつも駆けているなあとイサクァは考えた。

 小鼓を置くと、座ったままの帰蝶が彼を見上げる。


「……今はあなたを伊束法師と呼ぶべきですか、イサクァ」

『どちらでも。日ノ本での呼び名に興味はない』

「では、以前からの遊戯に従って、イサクァと。――前から一つ気になっていたことがあります」

『なんだ』

「――あなたが殿のことをいう、「」というのはいったいどんな意味なのですか? もう十年近くずっと不思議だったのです」


 心底不思議そうな瞳の色で帰蝶は尋ねた。

 まさに本心なのだろう。

 すると、風雨を読み、天気の変更を告げる役目があるということで織田軍団に出入りするようになっていたアメリカ大陸の先住民族の戦士は、信長の去った方角を見やり、


『友達だ』


 と、ちぃとだけ不本意そうに答えるのであった。



                 完

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