伊佐馬の抜き打ちの一刀が胴を斬り払おうと放たれた。
右脇腹から左へと十分に命中していたら真っ二つになっていてもおかしくない一撃だった。
得物である
痩せた鯨ならば剣で二・三回突けば殺せるだけの殺傷力を持ち、逆に肥えた鯨でも百回突き刺せるほどの強度を誇る、武器と言うより道具であ外記る。
まともに食らえば編み笠の武士―――柳生心眼流の馬冶外記とて即死していただろう。
事実、外記もそう感じていた。
(だが、雑すぎる。剣を本格的に師事したことはない抜刀よ)
それに伊佐馬の動きにははっきりとした前兆がある。
剣を学ぶものが、総じて動き始めの微妙なサインを苦心して捨てなければならないのは、それを見ぬかれれば先んじられるからである。
ゆえに、敵よりも早く動くために気を消して動きを気取られぬように時間をかけて癖を洗い出すのだった。
外記が学んだ柳生心眼流はもともと柳生新陰流の流れをくむことから、後の先、つまり相手に先手を取らせてなおかつ敵を倒すことを信条としている。
ゆえに鋭い観察眼と気配を読む観の目が求められる。
外記は伊佐馬が抜き打った後に動くことになるが、その点において大男は読みやすい相手であった。
もっとも、その激しさは予想以上だった。
伊佐馬を知る町民からは、くじら侍と綽名で呼ばれるほどの大きな身体が全身の筋肉を限界まで振り絞って打つような抜き打ちは、外記の心胆を寒からしめるに足る迫力である。
抜刀の際の拳を止めるということもできなくはないが、この大男の膂力は侮れんと判断し、それよりは一撃を交して懐に飛び込む方がいい。
「ごああああああ!!!」
権藤伊佐馬の吠え声は戦場における威嚇のためのものとはかなり違う。
武士が荒野の戦場で長く尾をひく狼のように喚くのとは異なり、伊佐馬が吠えるのは乱流とうねりで荒れ狂う海原での鯨を恐怖させるための絶叫であった。
力の限り抵抗する巨獣を殺すためのはったり。
しかし、実際にその声は鯨たちを死の恐怖に叩き込む不吉な音なのである。
初めて聞く恐ろしい大音声に鼓膜を震わせながら、懐に潜り込んだ外記は岩のような胸板に三発の拳を叩きこんだ。
手応えも岩のようだった。
ただし、鍛え抜いた外記の拳は確実に筋肉の壁を乗り越えて痛みを与える。
伊佐馬は揺らいだ。
吸った息を抜き打ちと吠え声で吐いてしまったせいで、肺が収縮しているところを打たれたので堪えきれなかったのだ。
なおかつ、外記が体を返して、左の肩をぶつけたことで足が宙に浮く。
間髪入れずに伊佐馬の背中に廻りこんだ。
柳生心眼流は、彼我、つまり背中合わせの状態で、相手が我の襟首をつかんで背負い投げするところを、倒立後方回転(今でいうバク転)をして着地しながら逃れ、さらにまた体を入れ替えて相手を投げ倒すという動きで稽古する。
背中をあわせることで相手を脳天から投げ捨てる技である。
先ほど徳一に使ったのもこれだ。
外記の流派の師はムクリと呼ぶ技法であるが、もともと戦場の混戦の中での相手を仕留めるためのものであった。
それをさらに洗練させ、外記が仕えている藩では少なからず暗殺のための手段として認知されていた。
大柄な伊佐馬を投げることはさすがにできそうもないので、襟首をとらえて、きぇいと土手から投げ落とした。
三間ほどを凄まじい勢いで転げ落ちる伊佐馬。
目方のある大男ならば自分の重みだけで下手をすると動けなくなるような落下であった。
大川のすぐ手前まで転げ落ちてうつぶせのまま、伊佐馬は動かなくなった。
わずかに四肢が河原の小石をつかもうとしていたが、まったく立ち上がることはできなさそうだ。
外記は用心しながら土手を降り、倒れたままの伊佐馬のもとへ近寄る。
(とどめを刺すべきか)
仙台掘の河童のことについてしつこく嗅ぎまわる親子連れを始末しようとしていたときに、邪魔に入ったこの男のことを外記は知っていた。
(河原であの女を買った客だ。俺のしらんことを睦言で聞いてるやもしれぬ。でなければ、川のこちらまでやってくるとは思えん。―――まて。もしや、さっきの親子連れの仲間か。そうであるのならば是がひにでも始末しなければ……)
だが、外記は刀を使う訳にはいかなかった。
素性のしれない浪人とはいえ、侍が刀で斬られたとなったら騒ぎになる。
外記がいつもしているような首の骨を折っての殺しとは注目度が違う。
となると、選ぶべき手はそうはない。
意識を完全に刈り取って大川の流れに委ねることだ。
気絶したまま川に捨てられればたいていのものは溺れ死ぬ。
(どれ、首の骨を踏み折っておくとしよう)
右足を振り上げた。
あまり使わないが、柔術において押さえつけて倒れた敵の顔面を踏み砕くのは常套手段だ。
戦場でいちいち小刀に持ち変えている暇はない。
そのとき、軸足にしていた左足首に激痛が走った。
倒れているはずの伊佐馬がとてつもない握力をこめて握りしめたのだと気が付く。
まだ、動くのか。
と外記が意識する間もなく、敵の足首を握りしめた伊佐馬はありったけの力を込めて立ち上がると外記の腰に飛びついた。
そのまま一気に加速し、次の瞬間、大川の水面の上に飛び出し、外記を抱え込んだまま大きな水柱を立てる。
「なっ!!」
無理矢理川に放り込まれた形になる外記は十分に足がつく浅さにも関わらず、慌ててしまい、水を呑み込んでしまい、むせる。
水練をしていないわけではない。
だが、突然、水中に放り込まれてしまい頭が真っ白になってしまっただけだ。
しかし、鍛えに鍛え抜いた柳生心眼流柔術もこの状況下では―――
「確かにわいつは強い。
胸までの深さしかないおかげで恐慌さえ起こさないようにして、なんとか立ち上がれたというのに、その背後に巨大な圧力がかかってきたことで外記は震えた。
まるで鯨影に覆いかぶらされたように。
胸まで水に浸かった環境ではどんな武芸もつかいものにならない。
そもそも最も大切な踏ん張りも歩法も無意味になるからだ。
「海の中でのわしは、一味違うぞ」
背後から外記を抱え込み、そのまま川の中に沈み込む。
がっちりと万力のような手で掴まれた肩と上腕部は固定されて動かない。
際限なく口に流れ込んでくる水はただただ苦しかった。
反撃の余地はない。
いや、反抗すらもできない。
腕を回しても、足をばたつかせても、外記は川の中から脱出できなかった。
見慣れた大川がまるで沼にでもなったかのように身体が泥に塗れたかの如く重くなっていく。
大男が化け物めいた力で沈めようとしてくるのだから仕方がない。
外記は意識が消えつつある中、伊佐馬の顔を見る。
(こいつこそ、河童じゃないのか……)
そう毒づいただけで、もう指一本動かすことさえできなくなっていた……
◇◆◇
完全に溺れきった馬冶外記を岸に引き上げると、権藤伊佐馬は川の中から姿を現した。
土手を転げ落ちたときの擦り傷などがわずかに沁みている。
とはいえ、気にするほどのことではない。
なかなかにでかい漁が終わった気分だった。
柔術の達人らしき男と正面からやりあっても勝てないと諦め、最初から大川に誘い込むつもりだったのだ。
太地角右衛門が考案した網捕り捕鯨法を応用した策だということに気が付くものはまずはいないだろう。
この江戸に鯨漁のなんたるかを知るものは伊佐馬一人しかいないはずなのだから。
柔術の使い手は水をたらふく飲んでしばらく目を覚まさない。
溺れ死ぬ寸前に意識を落としたので、命に別状はないはずだ。
「さて、これからどうするか」
一人ごちたとき、後ろから声がした。
「―――それでしたら、私に任せてください」
振り向くと、見慣れた美貌がこちらを楽しそうに眺めていた。
「伯之進か。その様子では、あらましは突き止めたということだな」
「はい。それで、権藤さんと……その仙台藩士を連れてくるように頼まれております。ご同行、願いますか?」
「なといせ、わしを―――」
伊佐馬は少しだけ口ごもり、
「仕方ないか。乗りかかった勢子舟よ」
と嫌そうにうなずいた。