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第30話 鵜殿


「加判家老、松井誠玄は姑息な男であったようで、親父殿が時折口を滑らせていた限りでは、これをしたら儲かる、これをやるには安くあげるなどと武士とは思えぬことをよく周囲に漏らしていたらしいです」

「元禄ともなれば武士の世も商売繁盛第一を謳うものの方が住みよくなっていくものだね。その家老殿もその手のこせこせした男なのだろうさ」

「新宮の殿様であらせられる水野さまは、もともと徳川頼宣さまの附家老として入った水野重央さまが、三万五千石を領して始まった藩でして。そのため、新宮藩は今でも紀伊徳川家の家臣の領地扱いで、今の水野土佐守さまも紀伊家の家老として勤められているという次第です。その水野様からすりゃあ、少しでも金を稼ぎだそうとする姑息でつまらぬ男は重宝するのでしょう」


 佐吉のいう通り、新宮藩と水野家はいつまでも大名扱いはされず、支藩のまま明治時代になるまで藩として正式に立藩されることはなかった。

 そのこともあり、当初の新宮藩は常に財政的に困った事情を抱えていたにもかかわらず、捕鯨で儲けていた領内の太地からうまく金を流させることができなかった。

 そこにつけこんだのが松井誠玄である。

 新宮の藩庁は、熊野川の河口にある新宮城にあるが、水野重央自身は幕府の重臣として江戸で暮らしていた。

 そのため、加判家老が太地の捕鯨についてくだらぬ金儲けをしていたにもかかわらず、殿様がそれを知ることはなかった。


「そんな私欲の家老にとって、水野さまが始めた新しい太地の村、つまり鵜殿の捕鯨所はちょうどよい金儲けの種に見えてたんでしょうや。こっちにも色々とちょっかいをかけて、太地角右衛門どのが自分のいうことを重くとらえるように仕組んだそうです。例えば、捕鯨漁に必要な舟が買い付けにくいように邪魔をしたりとか……旅の刃刺を領内には立ち入らせないようにしたり……目付の役人をいつも異常に多めに派遣したり、とかですか」


 佐吉の言葉は、父親からの伝聞でしかない。

 そのため、伯之進としてはすべて鵜呑みにはできないが、ありそうな話だと思うと同時に、酒の席で伊左馬がなにげなく話していたちょっとした逸話と符合するものがあることを感じてはいた。


「……それでも、鵜殿の衆はなんとか順調に経営を続けていました。権藤さまたちも半分武士でありながら、漁師たちとうまくやっていたと聞いています。松井の余計なちょっかいがあったせいかもしれませんが、鵜殿の捕鯨所は団結して新しい漁場にしようとしていたのです。そのとき―――あれが網にかかりやした」

「あれ、とは?」


 先ほどから、佐吉が言葉を濁していた物事の肝がようやくでてきた。

 そして、これが権藤伊左馬が江戸にやってきた遠因となったものであろう。


「―――竜です。黒潮に流されてやってきた竜を仕留めてしまったことが、鵜殿の滅びの始まりだったのでさ」


  ◇◆◇


 男たちの荒々しい掛け声が砂浜に響く。

 彼らをまさに鼓舞するための太鼓の音もとどろくが、効果はほとんどなかった。

 誰もかれも調子が狂ってしまっていたからだ。


 頭から少しずつ、そいつは海から上がり、砂浜をのぼってくる。

 胴体がでてくるまでに、首だけで十二尺以上ある巨体は、それだけ途方もない重さであり、すべてを含めればマッコウを超えるほどもあるだろう。

 かつてない光景に、村のものたちがすべて集まってきていた。

 しかも、誰一人としてこの場を去ろうとしない。


 それはそうだろう。

 村人たちは海から引き上げられるあまりも珍しい―――いや、初めて見る巨大な生物にくぎ付けになっていたからである。

 人の上半身を食いちぎれそうな歯並びをもつ四角い頭、四つの手羽だけで五尋もありそうだった。

 明らかに鯨ではない。

 鯨はあんな長い頸をもっておらず、尾もあれほど長くない。

 肥え具合いだけでいえばまるまるとした鯨には及ばず、全身から恐ろしいほどの臭気をばらまき、肉はどうみてもまずそうだった。

 何よりも、ここは鯨捕りの専門家だけの村であり、誰もがこの生き物を鯨とは認めないだろう。


 ―――竜。


 すべてのものが、その生き物の名を知っていて、それだろうと断定した。

 噴き出す血液のために、砂浜は赤く染まり、地獄のようになっているため、さらに巨大な妖魅のようにさえ思える。

 解体のための頭衆かばちしゅうが道具をもって現れたが、誰も近寄ろうとはしない。

 ぬめぬめした鯨の皮膚で滑らぬようにわらじを履いて、まっさきに登っていく最も勇気のある男でさえ、近づこうとせず、皆が遠巻きに見て動く素振りさえも見せない。

 村長でさえ、どうすればいいか迷っているぐらいである。

 その指示を受けて動く男たちが一歩たりとも踏み出せないのは当然である。


『こいつを、これ以上傷つけていいものか?』


 誰しもがそう考えた。

 海に出て漁にとりかかった捕鯨舟のものたちは仕方ない。

 変わった鯨だと思っていたものが、実は見たこともない巨大な生き物で、しかも凶暴極まりなく、命を守るためにも銛をうたねばならなかったのだから。

 だが、それを砂浜に打ち上げて解体することまでが許されるのか。


 これは―――


「村長、漁師たちを引き上げさせていいかね」


 刃刺舟から降りたひときわ大きな男が言った。

 それほど声を張り上げたわけではないが、その場にいたすべてのものが聞き取れた。

 男は手に何一つ持っていない。

 持ち込んだ銛のすべてを、この巨大な獲物に叩き込んだのはこの男だけだった。


 そのことは、すでに村のすべてのものに伝わっていた。

 そして、この男が真っ先に、あれに銛を打ったということも。


「権藤、おぬし、こいつをどうして引き揚げようとした。海に流しても同じであったろう」


 村長の問いに、男―――権藤伊左馬は答えた。


「こやつが暴れたことで第一舟が潰れた。主の太夫はまだ見つかっておらん。他にも大勢の水夫かこが死んだことだろろう。となると、せめてこいつを売らねば死んだ者の家族に払う金も出せなくなる。鵜殿は太地に比べればまだまだ貧しいところだ。背に腹は代えられぬ」

「しかし、こいつは―――おぬし……」


 竜という言葉を口にしようとした村長の口をふさぐ。

 伊左馬の掌は長の顔を包み込めるほどに大きかった。


「口にせぬ方がいい。海の男の迷信深さを考えるとな。―――いいか、長。あれは鯨だ。多少おかしげに見えぬこともないが、所詮はいつも獲っておる鯨だ。

「権藤……」


 村長ももともとは武家の出であった。

 ただ、この鵜殿ができる前から浪人の家であり、この事業のために選ばれた男である。

 自分の立場はわかっていた。


「……あとで角右衛門どのに相談しようか。ともかく、急いで頭衆と包丁方の長にも仕事をさせることにしよう。権藤、おぬしは水夫どもともに休め」

「わしは海に流されたものどもに生き残りがおらぬか探してみる。太夫もみつけねばならんしな。元気そうなのを何人か借りるぞ」

「大丈夫なのか」

「なに、おかしな鯨一匹、獲ったところでいつもと苦労はさして変わらぬよ」


 そう言い放つと、必要な指示をだし、伊左馬は再び海へと向かっていった。

 長はその背中を頼もしくも恐ろしくも感じつつ、獲物の解体のための作業を始めるように動き出した。

 恐ろしいことだが、このまま砂浜にほうっておいて太陽に照らされて腐りだしたりしたら、さらに手に負えなくなる。

 その前に鯨と同じ要領で解体してしまうのが一番だ。

 肉と油にしてしまえば同じことだろう。

 村長はそう腹を決めた。


 例え、目の前に運び込まれたこの死骸が―――伝説の竜であったとしても。



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