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第31話 呼び出し


「家老の松井誠玄と、太地の太地角右衛門どのとの対立は深刻なものだったそうです。おれはその頃、下級藩士の鼻たれの倅でしかなく当時の事情についてはそんなに教えてもらっちゃあいませんでしたが、鯨漁の儲けで分限者とまで謳われた角右衛門どのが羨ましかったのでしょう。水野家の先代重良さまが藩の財政を支えるために始めた、鵜殿の捕鯨所についても松井は嫌がらせをしていたようで」


 まだ佐吉が十にも満たないころの事だ。

 ほとんどが伝聞調になるのも仕方のないところだった。

 ただ、感情はともかく父親の言っていたことだけは正確に覚えている。


「松井は、その頃は数も減っていた海賊衆との繋がりも噂されていたため、漁師たちからすりゃあ蛇蝎みてえな野郎でした。海沿いにも網をはって、旅の刃刺たちの行き来を邪魔したりもしてましたからね」


 佐吉は松井が本当に憎くて憎くて仕方がないらしい。

 伯之進にもその気持ちはわからなくもなかった。

 どうも松井というのは、表向きは大人を気取り、おおらかで洒脱な顔をしていたようだが、実際にはこせこせして猜疑心が強く、後先を考えずに行き当たりばったりで行動する人物のようだ。

 つまり、小藩とはいえ武家の重鎮には相応しからぬ輩である。

 それに父親を奪われ、家を潰され、故郷から逃げ出さざるを得なくなったとすれば佐吉の気持ちも当然の事であろう。


「鵜殿がああなっちまったのも、松井のせいだと親父は言ってました。野郎、鵜殿の主だった衆をなんだか知らねえ因縁をつけて、新宮のお城に呼び出したんでさあ。そして、その間に、海賊衆に村に火をかけるように命じた。それで鵜殿は終わっちまったんですよ。人死にこそ、そんなには出なかったみてえですが、舟や解体場、網や銛といった道具が焼けちまえば、漁師は終わりだ。借金がかさんで鯨漁どころの騒ぎじゃねえ。鵜殿はあれでなくなっちまったんでさ」


  ◇◆◇


 鵜殿の村長と主だったものが新宮城に呼びつけられたのは、竜を陸揚げしてから二日後の事であった。

 仕留めた竜の解体も終わり、肉の分配も終わったことで、村人たちの妙な落ち着きのなさも静まりかけていた矢先のことだ。


 太地の鯨方の組織を倣って作られた鵜殿では、体制の頂点にいるのは村長を中心とする本部である。

 その本部の下に山見(見張り役)、沖合い(勢子舟などの鯨舟にのる漁師)、大納屋(器械係)、鯨始末係(解体など)、筋師の五部門があり、その頭にはもともと新宮藩出身の浪人が当てられていた。

 舟長である刃刺などは本来の形では世襲制なのだが、鵜殿だけは例外的に浪人あがりの男がなることも認められていた。

 刃刺の幾人かはもと武士の浪人で埋められていた。

 新宮藩の殿様の肝入りだからであり、藩の直営であったことから、要所要所に浪人上りが配置されているのが特徴であった。


 権藤伊左馬もその一人だ。


 ただし、一番から二番まではもともとの本職の漁師がなり、伊左馬は三番船の刃刺である。

 やはり命がけの鯨漁には、もともと実力が優先されたのである。


 新宮城に呼び出された主だったものとは、この浪人たちであった。

 浪人とはいえ、元は武士であり、新宮藩の藩士であったものかその倅が大半だ。

 殿様のお召とあればいかねばならない。

 だが、その理由が一切不明であった。


「なんだと思う?」

「重上さまが江戸よりお帰りになっておられる。鵜殿の経営についてなにかしらの口上をよこせということではないのか」

「殿は、くじらの事なぞ、何も知らんじゃろう」

「それはわかっちょる。だが、なんにせよ、今時分に呼びつけられるのは困るな。もうセミクジラの時期じゃ。わしらにとっては稼ぎどきよ。長も刃刺もおらねば、漁にはならん」

「……まっこつ、あの縁起悪いものを撃ってから嫌な予感がしてならん。わいつはどうじゃ、権藤。あれに一番に銛を打ったのはわいつじゃろ」


 岸を行くのは時間がかかるため、舟を用いて、直接熊野川の河口までやってきて、それから船旅用の宿の一つに泊まることになった鵜殿の男たちは酒を飲みながら愚痴った。

 明日は城にまで行かねばならない。

 すでに、士籍まで削られている元武士もいる一向にとっては城にあがることは苦痛ですらあった。

 浪人を解除して武士に戻ることもできたが、漁師としての水に馴染みすぎてしまったのかもしれない。


「わしは一番舟の太夫が波にさらわれたのをみておったからな。それに二番舟も位置的には遠くにいすぎた。だから、わしがやったのだ」

「他の刃刺も刺水夫も、みな、わいつの肝を讃えておったよ。あんなもんに一番銛をつけられるのは権藤だけだとな」


 その声には隠し切れない賞賛があった。

 多少のやっかみと、ともに。


 ただでさえ鯨漁に出るおとこたちの勇猛さに憧れを抱かざるを得ないのに、どこの昔話から飛び出してきたのかわからぬ得体のしれぬものに真っ先に挑むなど、かっと血が燃え上がってしまった。

 あの竜には鯨のような噴気孔がないため、鼻を切ることができないので、仕留めるためには銛をできる限り叩き込むしかなかった。

 そのときも伊左馬の阿修羅のごとき働きが際立った。


 刺水夫の渡す銛を次から次へと近づいて打ち込んでいくのだ。

 凄絶といっていい働きだった。

 このとき、かの竜に打ち込まれた銛の三割が伊左馬の放ったものだったほどである。

 鵜殿のすべてのものが、伊左馬の凄まじさを骨の髄まで叩き込まれたようであった。

 結局、死骸が見つからなかった一番舟の太夫の代わりには伊左馬をあてようという流れが村中に出来上がりつつあった。


「……竜を打ったことで、わがらに褒美でももらえるのかもな」

「まさか」


 ただの冗談でしかなかったが、彼らからすれば、竜などという生き物を実際に仕留めたのだからそれぐらいは与えられてもいいぐらいの気持ちはあった。

 とはいえ、あまり声たかだかに喧伝したい話でもない。

 あれは縁起の悪いものだ、ほとんどのものが思っていたからである。


 この中でも、伊左馬だけは、早く鵜殿に帰って鯨漁にもどりたいということでいっぱいだった。

 あの竜退治は血を流しただけの無益な殺生としか考えていない。

 いつものように骨まで解体されて処理されたが、鯨とは何から何まで勝手が違った。


「……あの肉、不味かったな」

「美味いところがほとんどなかった。ばばしよるものがおらんかったぐらいに臭いしな。そのうえ、油はとれん、骨も歪んでおってつかいものにならんと始末係が愚痴っておった」

「竜なんぞ、ヒトの食らうものではないということだ」

「まさか、あんなもんとは誰も思うちょりやせんかったからな」


 結局、解体されたかなりの部分が穴に埋められて捨てられたという。

 臭いと味、どちらも酷いものだったからだ。

 あれがもし腐りだしたら、悪臭どころの騒ぎではなくなっていただろうと古老が嘆くほどであった。

 まったく労力と失った人命と天秤にすらかけられないほどの無意味さだった。

 つまりは、無駄な漁だったということである。


「そういえば、竜といえばお天道様を隠す珠を握っておるという話じゃったがなかったのう」

「あんなヒレじゃあ何ももてんだろ」

「ちげえねえか」


 ……こうして、旅籠での夜は更け鵜殿の男たちは新宮城へと招かれていった……





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