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第32話 襲撃


「―――葛西悌二郎。この浪人は、最近新宮藩の江戸屋敷に出入りしているようですね。仕事があるわけもなく、たんに藩士のご機嫌伺い程度のようです。家を継いだ兄が切腹を命じられたことで浪人した葛西家をなんとか取り立ててもらいという意図だろうとのことですが、十年以上放置されているので今更という扱いのようです」


 青碕伯之進が飼っている小者からの報告を伊左馬に告げた。

 彼が江戸に流れてきた経緯はさておき、故郷の紀伊国新宮領を出ることになったあらましについて佐吉の口から語られてしまった以上、特に隠すこともないので調べ物を頼んだのである。

 対象は葛西悌二郎の現在について。

 伊左馬は、こういう探索方の細かい仕事ができるような性格の持ち主ではないし、友人を頼ることに抵抗を覚える繊細さも有していない。

 頭を下げて頼むことに抵抗もなかった。


「たまたま葛西がわしを江戸で見かけたから声をかけてきただけなのかな?」


 刀まで抜かれているのに声をかけられた程度の認識でしかないのが、この大男の器がでかいのか歪んでいるのかわからないところである。


「わかりません。葛西が江戸に流れてきたのは、随分と昔のことのようですが。ただ、江戸屋敷に顔を出すようになったのは、……加判家老松井誠玄が江戸勤めになってからのようです」


 伯之進はその名前に対しての反応をうかがった。

 佐吉からの情報通りならば、伊左馬は松井に対して遺恨を抱いていて当然だからである。

 だが、大男の感情が少しでも揺らいだ様子はない。

 いつもの権藤伊左馬だった。

 少なくとも表面上は。


「あの男が江戸勤めになったのか。さては、新宮でなにかしでかしたのか。国許を仕切るはずの加判家老が罷免され、江戸勤めになるなどそうあることではないだろうに」


 大名格の家老の仕事は多岐にわたるが、江戸と国許での仕事は天と地ほども違う。

 国家老と江戸家老が兼任することがないのはそのためだ。

 特に江戸から離れた藩の場合は顕著である。

 配置換えをさせられたからといってうまく機能するはずがない。 

 おそらく松井は江戸では厄介者であったろう。

 そう、伯之進は睨んでいた。


「―――その加判家老についても調べを進めました。どうも、佐吉と権藤さんの印象通りの男みたいですね。金にこせこせしていて、筋を通すことを好まない。おべんちゃらが得意で、そのくせ相手を下に見る。私なら好きにはならない部類だ」

「腸から腐りきっておったからな」

「矢張りそうでしょうね。なんでしたら、殺しておきますか?」


 伯之進は軽口めかしていたが、わりと本気であった。

 新宮家は紀伊徳川の支藩であり、水野家は幕臣だ。

 金儲けしか頭にない男が幕政に絡むかもしれないというのは良いこととは思えなかった。

 それに話を聞く限り、友の仇でもありそうだ。


「ちぃと考えておこう」


 伊左馬には珍しいことであった。

 恨みつらみがあったとしても、殺そうとまでは考えず、もしやるとなったら躊躇うということはしない男だ。

 ここまで煮え切らない態度というのは、もしかして初めてかもしれない。


「ところで、聞きましたよ」

「何をだ」

「お伽噺からでてきたような竜に、銛を当てたそうですね。今でも、あのあたりの語り草になっているそうです。鵜殿の捕鯨所が廃された手前、おおっぴらには語れてないそうですが。―――まず、竜というのが今でも生きているというのが驚きますがね」

「わいつ、わしらの撃った竜が本物であるかどうかは聞かぬのか? おそらく新宮でも腹の底から信じてはおらぬものがたいがいだぞ」

「万事、嘘をつくのが下手な権藤さんが否定をしないのだから、まずまことに決まっていますよ」


 伊左馬は面倒くさがりである。

 なかでも一番面倒くさいのは、ついた嘘の上塗りをすることだった。

 以前ついたどうでもいいことを糊塗するためさらに嘘で取り繕ったり、撤回するために言い訳をするのが煩わしくて仕方がない。

 だったら、最初から嘘などつかねば良い。

 その方が楽である。


「もっとも、佐吉に問われたときに誤魔化したときいていますので、権藤さんが思っているよりも棘となって刺さっているのでしょうね」

「余計なお世話だ。まったく、あんな外道を獲ってしまってから、鵜殿は滅ぶ、国には戻れん、面倒なことだらけだ」


 外道というのは、釣りの言葉で狙っていた種類以外の魚を釣ってしまうことを言う。

 要するに、竜を退治したことは伊左馬にとってはただの狙いの外でしかないということだ。

 鯨一筋の彼からしてみれば、である。

 それで引き起こされた事柄からすると、運が悪い以外に応えようがない。


「竜珠についてはご存じなのですか」

「それは知らんな。解体して、内臓や頭、骨なんぞを大きな釜で煮込んで採油をするんだが、そのときにも見つかっておらん」

「それだけは伝説―――というわけですね」

「松井誠玄は信じておったようだがな」


 伊左馬が二人の間にふくべを置いた。

 中には酒が詰まっていそうだ。


「飲むか」

「いただきましょう」


 いつものように酌み交わしが始まる。

 だが、今日の伊左馬はいつものくじら侍と呼ばれる陽気な大男ではなかった。

 捨ててきた過去についに追いつかれた少しくたびれたただの漢であった。


「……それで、新宮城に呼び出された後はどうなされたのですか?」

「どうもこうもないな。わしらはまとめて牢屋いきだ。竜を殺したなどという世迷言で藩政を惑わせたという、讒言の類いよ。わしらがいない間に、おそらく、葛西の長男が鵜殿に行き、その竜珠とやらを探したが結局、ないものはないということで見つからなかった。わしらは、藩のお偉方をたばかったという罪でさらに投獄が延び、そうこうしているうちに水軍崩れの海賊どもが鵜殿を焼いてしまった。わしらのいない鵜殿など、誰も守れやしなかったのだ。……それで村も、捕鯨所も、一巻の終わりよ。わしらが年が明けてから牢を出され、急いで帰ったときには数人の行き場のないもんが残っていただけであとはてんでばらばらになってしまっておった」

「鵜殿の捕鯨所は水野家の御肝いりだったと聞いていますが……」


 伊左馬は何かを吹っ切るかのように一杯を飲み干し、


「勢子舟も器械もすべて焼けてしまえば、また初めるのにどれだけかかるかわからん。それだけの金は藩にはなかった。もともと、角右衛門どのの懐だけが頼りだったともいえるしな」


 天井を仰ぎ、


「わしは、そのまま海から鵜殿を出たよ。水軍にでも入ろうかと思うてな。以来、伊豆や里見の勝浦にもいったが、水軍には馴染めなかった」

「それで、江戸に?」

「行き場がなくてな。だったら、江戸でもいいだろうと」


 かくて、くじら侍は陸に上がり、ただの浪人者に戻ったのである……


「妙ですね」


 伯之進が愛刀を引き寄せ、腰にさした。

 伊左馬も同様に大剣を手元に引き寄せる。

 外の様子をうかがう。


「殺気ほど純粋ではないようですが―――見られている気配がする」

「わしは足の裏がざわついてくる。鱶が勢子舟の下をくぐっていったときのことを思い出したぞ」

「権藤さん、酔ってますか?」

「おらん」


 行燈の灯りを吹き消す。

 長屋の内部は真っ暗に変わった。

 外に数人の気配がわき、逡巡しているのが手に取るようにわかる。

 行燈の灯りが消えたことをおかしいと判断したのだろう。

 指示を出せるものを待っている様子がして、


「権藤さん」


 長屋の引き戸のすぐ前に複数の気配が立ったと同時に、伊左馬が突貫した。

 鞘から抜いていない大剣を介者剣術のごとく担いで、彼の頑強極まりない肉体と比べたら紙に等しい堅さしかない木戸を破壊して飛び出す。

 外には中に踏み込もうとする寸前の男たちが数人いたが、巨大な岩石のような伊左馬の体当たりに吹き飛ばされる。

 このとき、伊左馬は二人の男を撥ねたのだが、それでこの二人ともが頭を打ってしばらく動けなくなっていた。

 無言での突貫だけで二人を戦闘不能にしてしまうところに、鍛え抜かれた巨漢の恐ろしさがあろう。


 一拍遅れて、伯之進が低く滑るような飛び出しで外に飛び出し、かろうじて伊左馬に巻き込まれずに済んでいた男の脛を刀の峰で打った。

 長屋に踏み込もうとしていたものどもの正体がわかっていない以上、まだ殺すには早いと考えただけだ。

 いつもならば足首を斬り落としている。

 ただし、それだけで男の脛は折れ、立つことができなくなった。


 伊左馬のものと含めれば、たった一息の間に三人を行動不能に陥らせるという桁違いの男たちであった……






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