邸を出た貴晴が歩いていると牛車がやってくるのが見えた。
車体が白っぽく見えるのは
貴晴は足を止めると道を譲るために脇に
よくよく考えてみたら貴晴の乗ってきた牛車は邸の前だ。
牛車に乗って帰るとなると隆亮と同乗することになる。
当然さっきの話が出るだろう。
それが嫌なら歩いて帰るしかない。
まぁ、歩いて帰れない距離ではないが……。
そんな事を考えている間にも別の牛車が通り過ぎていく。
どうやらこの先にある寺で何かあるらしい。
花の季節だから花を絡めた
山は満開の桜で淡い色に染まっている。
二年前、貴晴が信じていた世界は偽りだったと知った。
あそこは近くに寺があったのだし、あのとき出家すれば良かった……。
「届かめと なげきを空に
貴晴が呟いた。
下の句はどうするか……。
「桜は
不意に女性の声が聞こえてきて貴晴は振り返った。
背後に止まっていた
貴晴が何か言う前に牛車が動き始めて寺の方へ行ってしまった。
どうやら寺の入口が混んでいたから空くのを待っていたらしい。
「ああ、管大納言の車か」
追い掛けてきた隆亮が牛車を見送りながら言った。
「管大納言? なんであの牛車が管大納言の車だって分かった?」
檳榔毛の車は他にも二、三台は見掛けたから車だけでは判断出来ないはずだ。
「姫が乗ってるだろ」
隆亮がそう言って牛車の後ろの
牛車の後ろの御簾から女性の
この季節らしい桜の
「管大納言の大姫って、歌が評判だって言う?」
貴晴が訊ねると、
「ああ」
隆亮が頷いた。
「きっと歌会に来たんだろう」
「歌会? まだ十七、八だろう?」
「十六だ」
「その若さで!?」
貴晴は驚いて隆亮の方を振り返った。
歌会というのはただ歌を詠むのではない。
左と右に分かれて優劣を競う。そして審判がどちらが優っているか決めるのだ。
その昔、左と右、どちらも優劣が付けがたくて審判が迷っていると、帝が右の歌い手が詠んだ歌の最後の句を呟いたのを聞いて右の勝ちにした。
負けた左の歌い手はそれを苦に自害した――物語では。
実際は自害などせず、その後も歌会に出て歌を詠んでいた。
もちろん負けたのは悔しかっただろうが。
しかしそんな物語が出来てしまうくらい真剣に勝負をするのだ。
当然いくら身分が高くても上手い者でなければ呼ばれない。
見学もなくはないが貴族の姫は基本的に外出しない。
少なくとも歌会の見学に来たりはしないはずだ。
となると勝負に参加するために来たという事になる。
「自分で言っただろ、評判だって。だから歌会に呼ばれてるんだよ」
隆亮が言った。
つまり彼女を呼べば勝てると思われているという事だ。
大納言……。
『管大納言の大姫は歌が上手いと評判なのであなたも気に入ると思ったのですよ』
母の言葉が
確かに話してみたい。
作った歌を聞くだけなら母が詠じてくれたように
だが出来ることなら歌のやりとりをしてみたい。
貴晴は注目を浴びないようにしているから歌会にも出られないし、友人は隆亮しかいない。
隆亮は必要なら歌を詠むが、好きで作っているわけではないから歌のやりとりを楽しんだりしない。
だから、ずっと歌のやりとりを一緒に楽しめる同好の士が欲しかった。
しかし以前、貴晴自身が母に言ったように大納言の大姫ともなると身分の低い貴族は相手にされないに違いない。
まして若くして歌会に呼ばれるような評判の歌人ともなると。
本人の意志の問題ではない。
文を出しても姫の手に渡らないのだ。
差出人を親や乳母などが調べて婿の候補にしても良さそうだと思われてようやく返事がもらえるが、それも最初のうちは親や乳母子などが代筆する。
何度もやりとりをして認めてもらえるまでは姫からの返事は来ない。
貴晴は出世する気がなかったし付き合いも絶っていたから貴族社会では無名だ。
大勢いる下級貴族の一人では相手にされるわけがない。
貴晴は拳を握り締めた。
それから祖父のいた邸に向かって駆け出した。
「え、おい! 貴晴!」
隆亮が慌てて追い掛けてくる。
邸に入ると祖父はまだ中にいた。
まるで貴晴が戻ってくるのを見越していたかのように。
「官位は?」
貴晴は祖父に訊ねた。
「本来なら親王や大納言が
貴晴が言った。
官職には対応した官位がある。大納言なら
今の官位が
官位相当制というものである。
弾正尹は決まっていなかったはずだが官位が低くては身分の高い者を
「
祖父が答えた。
六位から
そして三位以上が
大納言の姫とも釣り合う。
「いいだろう。引き受ける」
貴晴が言った。
「名誉職ではないからな。実力がなければ任せられぬ」
祖父が言った。
「……どうすればいい?」
貴晴が訊ねると、
「今
祖父が言った。
「今のはなんだったの?」
「え?」
織子は聞き返した。
「今の下の句よ」
匡が言った。
「ああ、あれは……」
「私が歌会に出てるときはやめてよ」
匡としては織子が代詠していると知られたくないのだ。
「はい」
織子は頷いた。
二人(と侍女達)が乗っている牛車が止まり、前方が下がった。
降りる時は牛を外すから前が下がるのだ。
御簾が上がると匡は降りていった。
会場に行くのは匡(と侍女)だけだ。
織子が事前に詠んでおいた歌を何首か匡に渡してある。
匡は題に応じた歌を詠むだけだが、もしも予定外の歌を詠まなければならなくなったときのために織子も着いてきただけなのだ。
織子は裾が外から見えないように中に引き込んだ。
「鬼?」
貴晴と隆亮が怪訝な表情で祖父に聞き返した。
「主に若い女性が
祖父が
「鬼に食われているということですか?」
隆亮が訊ねる。
「本物の鬼ではなく
祖父が言った。
群盗というのは盗賊団のことである。盗賊というのは徒党を組むことがあるのだ。
「一昨年
祖父が言った。
大赦というのは
恩赦というのは国家や帝に
盗賊が身一つで出獄したところで金も仕事もない。
そして牢の中で知り合った盗賊達が同時に放たれれば徒党を組むのは火を見るより明らかだ。
一応
普段なら帝が即位した時ですら大赦まではしない。
大赦をするのは本気で仏の加護を必要としているような時である。
おそらく一昨年、内裏で何か
大赦をしなければならないような大事が――。
一昨年ということは二年前か……。
貴晴が殺されそうになって秘密を知ったのも二年前だった――。
いや、今は余計なことを考えている時ではない。
貴晴は目の前のことに注意を戻した。
「検非違使は手をこまねいているのですか?」
貴晴が祖父に訊ねた。
とはいえ、検非違使に捕まえられてしまっては貴晴は必要なくなってしまうし、そうなったら
そう言えば弾正尹になったらなんて呼ばれるんだ……?
親王ではないから『
って、気が早いか……。
「手を尽くしているようだが
祖父が答えた。