「本当に
祖父は隆亮の質問には答えず、貴晴に顔を向けた。
「黒幕がいると思っているのでしょう。親王か
貴晴が祖父の無言の問いに答える。
内裏に住んでいない親王は母方の祖父母と暮らしていることが多いし、親王の祖父は大抵は大臣か元大臣だ。
大臣は広い邸に住んでいる上に別邸も持っている。
盗賊が家人に知られずに出入りすることも可能だし、検非違使に調べられる心配もない。
「お前、意外と
「さっきのはホントにお
貴晴が白い目で隆亮を見た。
「おそらく貴晴の予想通りだと思われているようだ」
祖父が答える。
そう思っているのは祖父ではないのだ。
『誰が』とは言わなかったが、祖父には弾正台を勝手に決める権限などないのだから当然だ。
本来なら親王がなる弾正台を祖父を通じて打診してきたのも貴晴の出自を知っているからだろう。
となると祖父に話を持ち掛けてきたのはおそらく……。
後で今日の歌を詠まなければならなくなるかもしれない。
桜は満開だから適当に花の歌を詠めばいいのかもしれないが、それだと当たり障りのない歌になってしまう。
会場(の近く)から見えたものを詠み込んだ方がいいはずだ。
「
歌を考えるなら出来れば地面に書きながらしたいのだが人に姿を見られたら義母や匡に叱られるだろうし、何より以前牛車から降りて怖い目に
警護の者達は匡に
次に襲われた時また助けが現れるとは限らないのだから牛車の中で大人しくしていた方がいいだろう。
〝届かめと なげきを空に……〟
「
織子はさっきの上の句を呟いた。
さすがに今日の歌会の歌で〝墨染めの〟はダメよね……。
墨染めというのは喪に服しているという意味である。
さっきの方は親しい方を亡くしたのかしら……。
そう思った時、牛車の前方が上がった。
牛に車を
でも、まだお姉様が乗ってないのに……。
前の御簾から外を覗こうとしたとき、
「この車なら金になりそうだな」
「牛も元気で毛並みが良いから高く売れるぞ」
と言う声が聞こえてきた。
慌てて音を立てないようにしながら御簾の隙間から外を覗く。
その隣にもう一人男がいて二人で話をしていた。
牛の横にいるのは
と、盗賊……。
織子は
どうしよう……。
このままではどこかへ連れていかれてしまう。
織子が乗っていることには気付いていないようだが――。
飛び降りることは出来ない。
牛車というのは車輪が大きい分、車高も高い。そのため地面から
だから降りる時は牛から
後ろの御簾から覗くと寺からどんどん離れていく。
このままではどこかに連れ去られてしまう。
「捕まえるのが検非違使という事は私は
貴晴が言った。
「そうだ。そんなに簡単ではないと思うがな」
祖父が答える。
それはそうだ。
邸に踏み込んで捜索する権限を持っている検非違使ですら入れないような公卿や親王の邸をそう簡単に調べられるわけがない。
貴晴には手先として使える郎党もいない。
今から雇うことは出来るがすぐに雇えるものなど素性の怪しい者ばかりだから信用出来ない。
ツテもないから怪しい公卿がいないか聞くことも出来ない。
「貴晴一人では手が回らないだろう」
祖父はそう言うと隆亮に顔を向けて、
「そういう訳なので貴晴の手伝いを頼みたい」
と言った。
「
「仕事の時に話を聞いておくよ」
隆亮が貴晴の言葉を遮って言った。
「まぁ、それくらいなら……」
「お前と一緒に出掛ける時は
「あのなぁ……」
貴晴は呆れて隆亮を見た。
確かに物忌みを仕事を休む口実にする者は多いらしいが……。
邸から見た方角の
夢見が悪かったというのも物忌みの理由になるから言い訳として使いやすいのだ。
「隆亮殿は右大将の
祖父が言った。
随身というのは護衛のことだが私的に雇っているのではなく、近衛府から派遣されるのだ警護の者なのだ。
そして隆亮は近衛府の役人である。
「え、そうなんですか?」
隆亮が驚いたように声を上げた。
どうやら隆亮自身も知らなかったらしい。
「無論、実際は貴晴の手伝いだ」
祖父が言った。
「もしどこかへ行くことになったら物忌み……」
「そんなことをしなくても右大将に話を通してある」
祖父が隆亮の言葉を遮って言った。
随身の仕事は警護だが、護衛している相手の
例えば文を届けたりなどだ。
そして右大将というのは女好きで勇名を
悪名と言うべきか……。
文を届けるように頼まれたことにすれば右大将の側にいなくても怪しまれないだろう。
しょっちゅう女に文を出してるだろうしな……。
話を通したのは祖父ではなく弾正台の話を持ち掛けてきた『誰か』だろう。
おそらく帝か上皇……。
貴晴は溜息を
一生関わりたくないと思っていたのに……。
「じゃあ、早速行こう……」
何故か隆亮の方が乗り気で立ち上がった。
「隆亮、すまんが先に行っててくれるか」
「分かった」
隆亮はそう言うと出ていった。
貴晴が祖父に向き直る。
「隆亮にはどこまで話してあるんですか?」
貴晴が訊ねると、
「私がお前を弾正台に推挙したと言うことだけだ」
祖父が答えた。
「祖父上から話を持ち掛けたのですか!?」
貴晴が気色ばむと、
「隆亮殿にはそう話してあると言うだけだ」
祖父が「落ち着け」というように答える。
「では祖父上は話を持ち掛けられたのですね。どなたにですか」
「それが関係あるのか?」
「雇い主を知らずに働くことは出来ないでしょう」
貴晴が答えた。
「お前が正式に弾正台になると決まったら教える」
祖父の答えに貴晴は引き下がるしかなかった。
身分の高い者を調べて、場合によっては摘発するかもしれないのだから
邸を出ると牛車の前で隆亮が待っていた。
貴晴が隆亮に続いて牛車に乗ろうとした時、
「誰か!」
女性の叫び声が聞こえてきた。
牛車の横を歩いていた男が驚いたように身体の向きを変えたが、別の男が、
「構わねぇ、このまま行くぞ!」
と声を掛ける。
どちらも
牛車を盗もうとしているのか……!
「おい、お前ら!」
男達は貴晴が一人と見て取るとこちらに向かってこようとした。
貴族一人、どうということはないと思ったのだろう。
だが、貴晴の後ろから
貴晴は牛車の横で足を止めたが、
「待て!」
従者達は盗賊達を追い掛けていく。
「捕らえるなよ」
貴晴は由太にだけ聞こえる声で命じた。
由太は前を向いたまま頷くとそのまま走っていった。
「大丈夫ですか?」
貴晴はそう声を掛けてから御簾の下に見えている裾に気付いた。
桜の
さっき管大納言の牛車の御簾から見えていた裾と同じ色の
管大納言の大姫なのか……?
貴晴はとっさに、
「花散らす 風はあらしと 思ふれど 過ぎ去りゆけば 心やすらへと」
と詠じた。
織子は車の中で歌を聞いてハッとした。
さっきの人……!?
「風の
織子はが急いで歌を返す。
やはりさっきの……!
貴晴と織子が互いになんと言えばいいのか言葉を探している時、大納言家の随身と
「助かりました」
随身の一人が貴晴達に礼を言った。
「どういう事だ! 何故姫から離れた!」
隆亮が叱責する。
そう言えば隆亮は随身達の上司か……。
「そ、それは……」
随身達が困ったように顔を見合わせると、
「あ、それは私が用を頼んだので……」
車の中から大姫が答えた。