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春 六

「…………」

 貴晴と隆亮は視線を交わした。


「あ、あの……」

 大姫が困ったような声で言い掛けてから口籠くちごもる。

 大納言の随身は六人。


 大の男が六人も必要になる用……?


 大荷物を運ぶのでもない限り考えづらいし、どちらにしろそういうのは随身ではなくて使用人にさせるものだ。


 となると自分で人払いをしたのかもしれない。


 例えば男との逢瀬おうせとかで……。


 男と二人きりになりたくて人払いをしたのなら随身達が揃っていなくてもおかしくはないが……。


 貴晴はさり気なく身体の向きを変えて牛車の前の御簾に視線を走らせた。

 男物の衣裳の裾は出ていない。


 貴晴が牛車の方に目を向けた時、辺りに盗賊以外の男はいなかったから一人で飛び降りて逃げたのでもないだろう。

 となると男が裾を中に引き込んで、はみ出さないように抱え込んでいるのでもない限り乗っていないという事だ。


「そういうことなら……お気を付けて」

 としか言いようがない。貴晴がそう声を掛けると、

「ありがとうございました」

 という姫の声を残して牛車は向きを変えた。


 寺の方に戻っていく。管大納言の邸は反対方向だ。


 なんでわざわざ寺に戻るんだ?


 いぶかしみながら牛車を見つめていた貴晴は隆亮に促されて隆亮の牛車が止まっているところに戻った。



「どういう事!?」

 牛車に乗ってきた匡が織子をとがめた。


「どうと聞かれても……」

 織子が牛車を盗ませたわけではない。

 一番驚いたのも怖い思いをしたのも織子だ。


 それにしても……。


 前に牛車から降りた時は殺されそうになったから今回は中で大人しくていていたのに……。


 牛車には嫌な思い出しか……。


 そう思い掛けてさっき助けてくれた人のことを思い出した。

 まさか誰かと歌のやりとりが出来るとは思わなかった。


 歌のやりとりなんて物語の中でしかあり得ないと思ってたのに……。


 お互い姿が見えないのに歌だけで思いを伝え合うなんて……。


 そう思うと胸がときめいた。

 もっとも、これで終わりなのだが――。


 下の句を詠んだ時もさっきも、お互いどこの誰か知らないのだ。

 もし次の機会があったとしてもそれがさっきの人かどうかは知りようがない。

 まさか合い言葉みたいに今朝の歌の下の句と上の句を言い合って確かめるわけにもいかない。

 出来なくはないがあまり様にならない。


 きっと一度だけの思い出にしておいた方がいいのだろう。

 思い出はいつまでも綺麗なままだ。



 貴晴は隆亮と共に牛車に乗った。


 幸か不幸か大納言の大姫で間違いないと分かってしまった。

 となると弾正台になって従三位の位を貰うしかない。

 そのためには群盗――〝鬼〟を捕まえる必要がある。

 ただ――。


「今の、どう思った?」

 貴晴は隆亮に訊ねた。


「え?」

「随身も牛飼童もいなくて姫が一人で牛車に乗っているなんておかしいだろ」

 貴晴が言った。


「そうだな。侍女もいなかったし……」

「中を見たのか!?」

 貴晴が驚いて声を上げると、

「御簾から見えてる裾は一人分だっただろ」

 隆亮が答えた。


 そういうところはよく気が付くな……。


 さすがに妻が(二人も)いるだけある。

 貴晴は感心して隆亮を見た。


「男は乗ってなかったから逢引あいびきじゃないよな」

「逢いに行くところだったなら助けを求めたりしないだろうしな」

「それともどこかの男が姫を自分のものにするためにさらおうとしたのか?」

 隆亮が言った。


 姫に懸想けそうしていたものの相手にしてもらえなかった者が歌会のために外出したのを良い機会だと捉えて攫おうとした可能性はなくはないが――。

 例え無理矢理ではあっても姫の夫になってしまえば大納言家の婿として援助してもらえるし出世も期待出来るだろう。

 だからこそ、そういう事がないように警護の者達がいているのだが。


「どうやって人払いをしたのかってことになるな」

「大納言が呼んでると言って随身をだませば出来ないことはないかもしれないが……」

「だが普通は侍女までは離れないぞ」


 逢引あいびきでもないかぎり……。


 二人は揃って黙り込んだ。


「群盗のことは何か聞いてるか? 鬼の事は?」

 貴晴は気持ちを切り替えて隆亮に訊ねた。


「今のところは特にないなぁ。聞いておくよ」

「頼んだ」

 貴晴が言った。



 翌日――



 はだれ雪 花散る里の 庭のおもを 染めにし春は 風と去りゆく


「これで三首目」

 織子は地面に書いた歌を紙に書きとめた。

 義母から次の歌会までに五首詠めと言われている。


「歌の勝ち負けを競うのの何が楽しいのかさっぱり分からない……」

 織子は溜息をいた。


 この前のあの方との和歌のやりとり……。


「あれは楽しかったな……」

 あんなに胸が高鳴ったのは初めてだ。


「恋人と歌をやりとりするのってああいう感じなのかな?」

 だとしたら、いつか織子に恋人が出来たとき、その人は歌を詠むのが好きな人が良いと思った。


 貰った歌を詠む度にどきどきして、贈る歌を詠む度にわくわくする、そんなやりとりが出来たら、きっと文が待ち遠しくなるだろう。


「歌が上手い方から文を頂いた時のための練習だと思えばいいのよね」

 そう思えば匡のために仕方なく作らされている歌を詠むのも楽しく思える――と言うか、そうでも思わないとやってられないというべきか。



 数日後――



 貴晴は内裏の庭でひざまずいて頭を下げていた。


「よくやった」

 祖父が言った。


 部屋の中の御簾みすの向こうに帝がいる。


 官位によって内裏内で入れる場所が決まっている。


 六位以下だと建物には入れないので、建物の中の御簾の向こうにいる帝とは庭で話をしなければならないのだ。


 この前、管大納言の牛車を盗もうとした者を追い掛けていった由太から報告を受けた貴晴はそれを祖父に伝えた。


 それを祖父が報告したのだ。

 どうやら相手は帝だったらしい。


 建物内に入れないだけではなく、直接話すことも出来ないので祖父が間に入って話を貴晴に伝えていた。


「報告にあったのは〝鬼〟ではなかったが、それでも賊を見付けた功績により弾正台に補し、従五位下とする」

 その言葉に貴晴は、ちらっと視線を上げて祖父を見た。


「いきなり従三位では不審に思われるであろうし、貴族達の反発を招く」

 祖父はそう言ってから、

「貴族の協力を得られなければ上手くいくものもいかなくなるからな」

 と補足した。


 つまり徐々に引き上げるという事か……。


 この点に関しては信用していいはずだ。

 そもそも単なる調査なら弾正台という肩書きは必要ない。

 弾正台という名誉職を持ち出してきたのは貴晴にそれなりの官位を与えるためだろう。

 その理由が後ろめたさからなのか、他に思惑があるからなのかは分からないが。


「それから弾正台のことは内密に」

「え?」

 貴晴は思わず顔を上げた。


「弾正台が補されたと知ったら証拠を隠滅されるかもしれぬ」

 祖父が言った。


 それはそうだが……。

 そうなると……。


 貴晴が祖父に物問いたげな視線を送ると、

「何かあるなら申してみよ」

 帝が直接貴晴に話し掛けてきた。

主上おかみ

 祖父がたしなめる。


「かまわぬ」

 帝の言葉に祖父は引き下がった。


「私が弾正台だという事を知らないと弾劾も出来ないのではありませぬか?」

「捕らえるのは検非違使だ」

 祖父が答える。


「それは相手に知られずに尻尾を掴めたらの話でしょう。万が一探っている時に知られたらどうするのです」

「その時は弾正台と名乗って良い。色を許す。証を見せろと言われたらそれを見せよ」

 帝がそう言った時、

主上おかみ

 祖父がそう言って視線を向けた。


 貴晴が目をやると女房がそちらからやってくるところだった。


「お邪魔して申し訳ございません」

 女房がそう言うと、

「いや、もうすんだ」

 帝がそう答え、

「後は頼む」

 と祖父に告げた。


 話は終わったと言うことらしい。

 今日のところは。


「従五位下ということは人に言っていいんですね」

 貴晴は祖父に訊ねた。


 官職どころか官位まで人に言えないとなると弾正台になることを引き受けた意味がなくなる。


「かまわぬ」

 祖父は頷いた。それから、

「色を許されたのは証として必要だからだ。持っていなければ意味がないだろう。後で邸に届けさせる」

 と付け加えた。


 着用出来る色と文様は官位によって決まっていて本来なら着られない色(や文様など)を禁色きんじきという。

 色を許されると、その本来なら着られない色や模様を着用出来るようになるのだ。


 何位までの色を許されたのかは分からないが、祖父は知っているはずだ。

 五位の色は許しをもらうまでもなく着られるのだから恐らく四位か三位の色だろう。

 祖父は正三位だから三位や四位が着られる色の衣裳は持っている。

 それを譲ってくれるということだろう。


 とはいえ、色を許されてるくらいでどうにかなるとは思えないが……。

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