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夏 一

藤浪ふじなみの なみたつ想ひ ちりぢりに よするみぎわは 恋にれなむ〟


由太ゆうた、これを管大納言かんだいなごんの大姫に届けてくれ」

 貴晴たかなりはそう言って文を由太に差し出した。

 由太が文に目を落とす。


「あの……姫ということはこれは懸想文けそうぶみですよね?」

「当たり前だろう」

 貴晴がそう答えると由太が深い溜息をいた。


「なんだ?」

「懸想文をこんな色気のない紙で出す人がいますか!」

 由太はそう言ってから、

「読んでも?」

 と訊ねると、貴晴が許可する前に文を開いた。


「このお歌なら紙は薄色うすいろがよろしいでしょう。それに藤の花を添えた方がいいですね。若様は清書していてください。花をって参ります」

 由太は貴晴の返事を待たずに花を採りに行ってしまった。


 仕方ない……。


 貴晴は侍女に薄色――薄い紫色の紙を持ってくるように言い付けると、清書のために部屋に戻った。



「五月待つ……う~ん……」

 庭で歌を詠んでいた織子しきこは首を傾げた。


 そのとき邸の中が騒がしいことに気付いた。

 今日は宴や歌会などをもよおす予定はないはずだ。

 少なくとも織子は聞いていない。


 織子は北のたい――北の方のいる建物に向かった。


「お義母様、何かあったのですか?」

 織子が義母に訊ねると、

「警護の者を増やしたのです」

 義母が答えた。


 近衛府から派遣されてくる随身の人数は決まっているから、それ以上増やしたければ自分で雇うことになる。


「急にどうなさったのですか?」

 織子が驚いて訊ねると、

「なんでも左大臣様の……」

 義母が話し始めた。



「左大臣の邸に群盗が押し入ろうとした!?」

 隆亮から話を聞いた貴晴は声を上げた。


 貴晴は隆亮の邸に来ていた。


「そうらしい」

 隆亮が答える。


「それで被害は……?」

「随身や家人けにんの何人かがケガをした程度で済んだとか……」

 家人というのは使用人のことである。


「〝鬼〟の仕業ではないかという噂があるそうだ」

 隆亮が付け加えた。


 鬼……。

 つまり群盗か……。


「盗まれた物は?」

 貴晴が訊ねた。


「詳しいことはまだ……」

 隆亮が答えた。


 左大臣の邸なら高価なものが色々あっただろう。

 海を越えてきたような品もかなりあったはずだ。


〝鬼〟が売りさばいた物を見付けることが出来ればそこから出所をたどることが出来るかもしれない。


 もちろん、盗品は普通の市には出回らない。

 売られるとしたら闇市という事になるだろう。


「そうか……」

 貴晴は頷くと、

「ところで今日は何か用か?」

 と隆亮が訊ねた。


「邸を調べさせてもらいに来た。せっかく右大臣の息子と友達なんだからな」

 貴晴が答えた。


「ちゃっかりしてんな」

 隆亮は呆れつつも邸の中を案内してくれた。


 右大臣家の邸には怪しいところはなかった。


 少しでも疑わしければ祖父が貴晴の手伝いに隆亮を付けるはずがないから当たり前と言えば当たり前だが。

 それでも隆亮は念のために都にある右大臣家の別邸も見せてもらったがやはり何もなかった。



 帰り道――



の花の……」

 貴晴が呟いた時、

「若様!」

 郎党の声に我に返ると剣戟けんげきの音が聞こえた。


 由太が御簾から外を覗いたかと思うと即座に身を引く。

 突き込まれた刃が際どいところをかすめる。


「敵襲か!?」

 貴晴は太刀を掴むと御簾みすね上げて外に飛び出した。


「若様!」

 由太が慌てて追い掛けてくる。


 外では郎党達と男達が戦っていた。


「若様! 狙いは若様なんですから引っ込んでてください!」

 由太が太刀を抜きながら言った。


「敵が見えないとけられないだろ!」

 貴晴が言い返す。


 牛車というのは薄い板を編んだ箱を荷車の上に載せているだけだから矢や刃などは簡単に突き抜けてしまって防げない。

 その割に外が見えないから攻撃をけようがないのだ。


「だからって出てくる人がありますか!」

 由太がそう言った時、敵の一人が牛車の側面に刀を突き立てた。


 貴晴が「ほら見ろ」と言う顔を由太に向けて太刀を抜くと槍を突き立てた男の脇腹をく。


「ーーーーー!」

 男が叫び声を上げて転がる。

 由太が苦々しげに襲撃者達の方を向く。


「うぉぉぉ!」

 別の男が雄叫びを上げながら勢いを付けて腕を振り下ろす。

 貴晴からかなり離れている。


 こいつも槍か……。


 長い槍というのは武術の心得がない者に使いやすい武器なのだ。重い物を振り回せる力だけのがある者なら。

 重さと勢いでかなりの破壊力が出せるからである。


 貴晴は僅かに仰け反ってける。

 槍が貴晴の脇を落ちていく。横に払ってこない。すぐに次の動作に移れないようだ。


 武術の心得のない者か……。


 貴晴が槍が下に落ちきる前に踏み込む。

 勢いよく地面にぶつかった衝撃で男がよろける。

 貴晴はそのまま太刀を抜きながら懐に踏み込もうとした。


「若様!」

 由太の声に視線を上げると、よろけた男の向こうに別の男が見えた。


 とっさに地面に転がってける。


 男をつらぬいた刃が貴晴をかすめた。

 長刀なぎなたで男もろとも貴晴を貫こうとしたのだ。


「ーーーーー!」

 男の絶叫を聞きながら貴晴が地面に転がったまま片手で太刀を横にぐ。


 後ろから刃を突き立てた男が長刀から手を放すと、貴晴の太刀をけるために背後にぶ。


 由太が駆け寄ってきて男を横から斬り付けようとした。

 男は身体を倒して避けると由太にりを放つ。


 由太は慌てずにそのまま太刀を振り下ろす。

 男は際どいところで足に刃が触れる寸前に地面に転がってけた。


 そのまま男は土を掴むと由太に投げ付けた。


「くっ!」

 由太が袖で土を払う。


「由太! どけ!」

 貴晴の言葉に由太が地面に倒れ込む。

 それを見澄みすままして貴晴が太刀を投げる。


「ぐっ!」

 男の肩を太刀がかすめて飛んでいく。


 由太に当たらないように気を使ったため狙いが甘くなってしまって致命傷にはならなかった。


 男は肩を血で染めながら走っていく。

 由太も続けて太刀を投げたがあと少しというところで外れる。


 武器を手放した由太に別の男が駆け寄ろうとした。


「おい! 狙いはそっちだ!」

 誰かの声に男が向きを変えて貴晴の方に向かってきた。


 貴晴は地面に落ちていた槍を掴んだ。


「伏せてろよ!」

 そう声を掛けながら槍を力一杯横に振る。


 向かってきた男が槍にはじき飛ばされる。


「若様!」

 由太が貴晴の背後を見ながら声を掛ける。


 貴晴は槍の回転する力に逆らわず、更に柄を押すようにして身体を反転させる。

 槍の勢いが増し、後ろからきた男も貴晴に近付く前に柄でね飛ばされる。


 他に誰かいるか当たりを見回してみたが 由太は腕の立つ郎党を揃えたらしく決着が付いていた。


「若様、指示役を捕らえました」

 郎党の一人が男を連れてきた。


「女と間違えたわけじゃないんだろ」

 貴晴は男に言った。


 女性が乗っている場合、御簾の下から衣裳の裾が出るし、下簾しもすだれというきれを垂らすから分かるのだ。

 もちろん、男が下簾を垂らして女車おんなぐるま――女性が乗っている車を装うこともあるが。


「大人しくしてりゃ良かったんだよ」

 男が吐き捨てるように言った。


「表に出てこようとしなけりゃ命までは狙われなかったのに」

「何!? 私の命を狙ったのか!?」

 貴晴は目を見張った。


 どこからか弾正台のことが漏れたのか?


 となると襲撃を依頼したのは……。


「今更、野心やし……ぐっ!?」

 どこから飛んできた矢が男の眉間に刺さった。

 男が絶命する。


「若様! 伏せてください!」

 由太が貴晴を庇うように押し倒す。

 郎党達も身構えたがそれ以上の攻撃はなかった。


 こいつの口をふさぎたかっただけか……。


 今更……野心?

 弾正台の事か? それとも何か、あるいは誰かと間違えたのか?


 貴晴が乗っていたのは網代車あじろぐるまというよくある牛車で主に中級貴族が使うものだが、上級貴族もお忍びで出掛ける時などに用いるからどこででも見掛けるものなのだ。

 当然、勘違いもよくある。


「若様、早く乗ってください」

 由太に促されて貴晴は牛車に乗った。



 織子は匡の部屋で物語を読んでいた。

 このまえ匡が大伯母から貰った歌物語ではない。

 匡が大好きな物語である。


 それを声に出して匡と匡の妹に読んでいるのだ。

 匡達が字を読めないのではなく、他の事をしながら物語を聞くためである。


 皆うっとりしながら聞いているが、物語に出てくる帝の寵姫ちょうきは身分が低いが故に他の妃達からのイジメられ、それが元で死んでしまったのだ。


 寵愛されていたと言っても、帝は他の妃達から守ってくれなかったのである。


 そのうえ息子は元服と同時に臣籍降下しんせきこうか――つまり貴族にされてしまったのだ。

 それも官位はぎりぎり殿上人という中級貴族である。


 自分はイジメ殺され、たった一人の忘れ形見は臣籍降下なんて……。


 これではなんのために入内したのか分からない。

 せめて子供は親王として扱われることを望んでいたから親は娘を入内させたのではないのか。

 これなら中級貴族の妻になった方が幸せな一生を送れただろうに。


 何一つ羨ましいと思えるところがない……。


 一体どこに憧れる要素があるというのか。

 しかしこの物語を読んでなお妃に憧れている女性が多いのだから理解に苦しむ。

 匡もその一人である。


 私は妃より貴族の妻がいい……。


 歌のお好きな方が……。


 織子は以前、歌を交わし合った男性を思い浮かべた。


 歌を詠んでいたと言う事は貴族のはずだが牛車にも乗らずに道端にいたのだから上級貴族ではないだろう。


 だが、そんなことは気にならない。

 質素な生活には慣れている。


 二人で歌を詠みながら静かに暮らしていけたら……。


「織子様?」

 匡の声で織子は我に返った。

 慌てて続きを読み始める。

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