意識を取り戻し、ゆっくりと立ち上がると、まだ朝が早いようで空は薄暗い。
周りを見渡すと、そこは19世紀の英国に似た町の一角だった。
「ここは一体、どこなのだろう?」
霧が立ち込め、ガス灯がぼんやりと石畳を照らしている。建物は重厚なレンガ造りで、窓枠は煤で黒ずんでいる。
巨大な時計塔が街の中心にそびえ立ち、その時計の針は巨大な歯車によってゆっくりと動いているように見えた。
空には二つの太陽が浮かび、赤と黄色の光が交錯して不気味な影を落とす。
遠くには巨大な飛行船が浮かんでいた。真鍮と木材でできた船体が、蒸気機関の低い唸りと共に霧の中を進んでいる。大きな船腹には「スカイ・ホーク」と刻まれ、排気口からは黒い煙が吐き出されていた。
通りには馬車が停まり、蒸気で動く自動二輪車が錆びついて放置されている。
「これは、映画とかで見たことがあるスチームパンクみたいな世界だな」
私はそう呟いた。
そして左目の違和感に気づく、視界に生命データや環境情報が浮かぶのだ。まるで最新鋭戦闘機のヘルメット内の画像みたいだ。
ひょっとしてはと思い、私は全身を確かめる。
胸や腹筋が引き締まり、その硬さはまるで鋼のようだ。これまで運動不足でだらしなかった中年の体が、今や若々しく逞しい肉体へと生まれ変わっているのだ。
両足もしなやかで強靭、軽くジャンプするだけで驚くほど高く飛び上がることができた。
近くの建物の窓で確認すると、顔も若干引き締まった感じになっている。
私は霧深いこのスチームパンクの町を歩いてみた。空にある二つの太陽の赤と黄色の光が、ガス灯と温かく混ざり合う。
私はこの生まれ変わったといっていい体に慣れようと、腕を動かしてみる。太い静脈が浮かび、力がみなぎる感覚は、いまだ信じられないほどだ。
今や、彩や西村のことは遠く感じて、私はいくばくかストレスの呪縛から解き放たれていた。
その時、霧の向こうから鋭い叫び声が響いた。
「放すアル!」
聞きなれない女の言葉に続いて、低い男の笑い声と重い靴音が聞こえてきた。俺は反射的にそっちへ走った。
なんと全力で走ると、足裏が石畳を蹴るたび、地面が僅かにひび割れるのだ。
……こんな力、私にあったのか?
路地裏に飛び込むと、煤けたレンガ壁の間で、三人の男が一人の女性を取り囲んでいた。男たちは煤だらけの作業着に革の帽子をかぶり、手には錆びた鉄パイプや拳銃を持っている。顔には油汚れの布を巻いて、目だけがギラついていた。
女は10代後半くらいで、赤と金の刺繍が入った青いチャイナドレスを着ていた。 グラマラスな体の線が際立つスリット入りのデザインで、長い金髪はお団子にまとめられている。彼女は恐怖で顔を強張らせ、男たちに掴まれそうになっていた。
「おとなしくしろ、嬢ちゃん。お前は貴重な獲物なんだからよ」
一人が鉄パイプを振り回しながら近づく。
それに恐れた女が、後ずさりして壁に背をつけた瞬間、私は一気に近づいた。
「お前ら、何やってんだ?」
低い声で言うと、三人が一斉に振り返った。
「何だてめぇ!?」
リーダー格の大男が長い鉄パイプを振り上げて突進してきた。
私は避けず、腕を振り上げて受け止めた。鉄パイプが前腕に当たると、鈍い音と共にグニャリと曲がる。
この事態に、相手だけでなく自分自身も驚いた。
……こんな力、冗談じゃねぇ!
男が目を丸くする隙に、私は拳を握って軽く振り下ろした。
拳は男の胸に命中。ゴキッと骨が折れる音と共に、男は5メートル以上吹っ飛び、壁に叩きつけられて気絶した。
……何この力!?
残りの二人が慌てて襲いかかってきた。一人が拳銃を構え、もう一人がナイフを突き出してくる。
視界に相手の生命データなどが浮かび、動きがスローに見えた。
ナイフを左手で掴むと、ナイフがひん曲がり男もバランスを崩す。そいつも軽くはたいて地面に転がした。
「この化け物め!!」
最後の男が私の胸を狙って発砲してきたが、弾丸は胸に少しめり込んだだけで弾かれる。その隙に首を掴み、石畳に叩きつけた。
全身に蠢く強靭な筋繊維の凄まじいうねりに、自分でもビビるしかない。もちろん三人とも動かなくなっていた。
息を整えると、女性が震えながら俺を見上げていた。
「ありがとうアル。あなた、誰アル?」
ガス灯が彼女の顔を照らし、少し幼さが残る瞳が涙で濡れている。
チャイナドレスの裾が少し破れていたが、お団子髪は崩れていなかった。
「通りすがりの者ですよ。でも、あいつら、何で襲ってきたんです?」
女は立ち上がり、チャイナドレスを整えながら訛りを交えて答えた。
「わからないアル。……突然現れて、『お前が必要だ』って」
うーむ、この世界では自分のほうがよそ者だけに、犯人の見当もつかない。
事態を把握した近隣の住人が、人を呼んでいるみたいだ。
面倒ごとはごめんだ。さっさとこの場を立ち去らねば……。
「とりあえず、安全な場所まで送るよ」
俺はそう言って、彼女を連れて霧の中を歩き出したのだった。
空を見上げれば、飛行船「スカイ・ホーク」の蒸気音が響き、二つの太陽が次第にあたりを明るく照らし、朝を告げる。
私は彼女を助けたことで、この新しい体の力がどれだけ強力かを実感したのだ。
……確かに、前の弱々しい自分とは違う。
この腕に宿った力は、本物だ。胸を打つ鼓動が、それを証明している。
だが、頭の片隅にはまだ彩の笑顔が焼きついて離れない。
彼女を失った虚しさも、会社で過ごした灰色の日々も、完全に消えたわけじゃない。
それでも――この世界なら、何かをやり直せるのかもしれない。
不安と痛みを抱えたまま、それでも私は高鳴る心臓の音に震えていた。