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第9話 「遊女の涙」

# 第9話「遊女の涙」


 夜明け前の薄闇が日本橋界隈を深い藍色の絹のように包んでいる頃、珈琲茶屋「春庵」の格子戸をそっと叩く音が響いた。


 その音は羽毛で触れるように遠慮がちで、まるで誰かに見つかることを命にも等しく恐れているかのようだった。まだ乳白色の朝霧が街を覆う神秘的な静寂の中、コツコツという小さな音だけが時を刻んでいる。街の人々はまだ夢の中で、鳥たちさえ眠りから覚めていない時刻だった。


 お春は焙煎の準備をしていた手を止め、戸口に向かった。外にいるのは誰だろう。こんな幽玄な時間に客が来ることなど滅多にない。近所の人たちもまだ深い眠りについているはずの時刻だ。一体何事だろうか。


「どちら様でございましょうか」


「あの……珈琲というものを……飲ませていただけませんでしょうか」


 声の主は女性だった。しかし、普通の町人女性の声ではない。どこか蜜のように艶めかしく、それでいて木の葉のように震えている。夜の闇に慣れ親しんでいながら、今は不安で身を縮めているような、複雑で美しい響きがあった。


 お春は格子戸をそっと開けた。


 そこに立っていたのは、二十歳前後の息を呑むほど美しい女性だった。


 薄紅色の絹の着物は確かに最上級の品だが、普通の町人女性のものとは明らかに違っていた。派手な色合いと金糸銀糸の刺繍が月光に輝き、そして何より、髪には色とりどりのかんざしが宝石箱をひっくり返したように幾本も挿してある。べっ甲、珊瑚、真珠。まるで天女の装身具のような華やかさだった。


 しかし一番印象的だったのは、その目だった。


 深い悲しみと諦めが暗い湖の底に沈んでいるのに、同時に何かを必死に求める光が星のように瞬いている。まるで暗い井戸の底に落ちた星のような、痛ましくも美しい輝きを湛えていた。その美しさは、見る者の胸を切ないほど締め付けた。


「いらっしゃいませ。中へどうぞ」


 女性はほっと深い息をついた。その瞬間、張り詰めていた肩から力が雪解けのように抜けるのが見えた。緊張の糸がぷつりと切れたような安堵の表情を見せる。


「ありがとうございます。人目につくのが……」


「ご安心ください。まだ夜も明けきっておりませんし、この時間なら誰の目もございません」


 お春は女性を店の最も奥の、人目につかない席に案内した。朝の準備で灯した行灯の暖かなオレンジ色の光が、女性の顔を柔らかく包み込む。改めて見ると、厚く塗った白粉の下に、本当はまだあどけなさの残る素顔があることが分かった。


 頬の柔らかな輪郭、長い睫毛、小さく愛らしい唇。どれも天が与えた美しさで、きっと故郷にいた頃は村一番の美しい娘だったのだろう。今でも、その美貌は一目見た者の心を奪うほどだった。


「お名前をお聞かせください」


「夕霧と申します」


 夕霧。その美しい名前と装い、そして人目を避ける様子から、お春は察した。この女性は吉原の遊女だ。夜が明ければ廓に帰らなければならない、束縛された身の上の人だった。


 お春の胸に、複雑な感情が波のように湧いてきた。前世の知識で、遊女という職業の過酷さを知っている。売られてきた女性たちが、どれほどの苦労を重ねて生きているか。その一方で、彼女たちがどれほど強く、賢く、美しく生きているかも知っていた。


「夕霧さん。珈琲をお出しいたしますね」


 お春は慣れた手つきで七輪に火を起こし、焙煎した豆を丁寧に挽いた。石臼でする音が静かな店内に心地よく響く。ゴリゴリという規則正しい音が、なぜか心を落ち着かせてくれる。まるで時を刻む鐘のような、安らぎを与える響きだった。


 夕霧はその様子をじっと見つめていた。その目に、初めて見るものへの素直で純粋な興味が宿っている。職業上、多くのものを見てきた彼女の目が、今は子供のように無垢に輝いていた。


「不思議な色の豆でございますね」


「はい。南蛮から来た珈琲という豆です。苦い薬湯になりますが、気分がすっきりとして、心も落ち着きます」


 湯を沸かして丁寧に抽出すると、香ばしく神秘的な香りが立ち上がった。夕霧の鼻がひくりと可愛らしく動く。その仕草が年相応の娘らしさを見せて、思わず微笑ましくなる。


「なんともよい香りですこと」


「まるで焚き火のような、でも違う。初めて嗅ぐ不思議で魅力的な匂いですね」


 お春は最も美しい青磁の茶碗に珈琲を注ぎ、夕霧の前にそっと置いた。湯気が立ち上り、その香りがさらに濃く豊かに広がる。行灯の光に照らされた珈琲の表面が、小さな湖のように美しく輝いていた。


「どうぞ」


 夕霧は恐る恐る茶碗を手に取った。その白く美しい手が微かに震えているのに、お春は気づいた。緊張しているのだろうか、それとも何か他の理由があるのだろうか。長い苦労を重ねてきた手には、見た目の美しさとは裏腹に、かすかな疲れが刻まれていた。


 夕霧は香りを深く、深く嗅ぎ、そっと唇をつけた。


 一口飲んで、美しい眉をひそめた。


「苦うございますね」


「はい。最初はそう感じられると思います。でも、だんだんとその苦味に深い味わいがあることがお分かりいただけるかと」


 夕霧はもう一度、今度はゆっくりと味わうように飲んだ。茶碗を両手で大切そうに包み込み、その温かさを確かめるように持っている。まるで久しぶりに感じる心の温もりを大切にするように。


 しばらくして、小さくつぶやいた。


「苦いけれど……私の人生みたいですね」


 その言葉に込められた深い諦めと悲しみ、そして意外にも感じられる受容の心に、お春の胸がきゅっと締め付けられた。


「夕霧さん」


「はい」


 夕霧が顔を上げる。その瞳に、わずかだが確かな希望の光が宿っているのを、お春は見逃さなかった。


「もしよろしければ、お話をお聞かせください。この珈琲には、人の心を軽くする不思議な力があると言われております」


 お春の声には、前世でカフェ経営前にカウンセラーをしていた時の技術が自然と込められていた。相手の心に寄り添い、安心できる空間を作る技術。まず相手の話を否定せず、感情を受け止めることから始める。共感的傾聴の基本だった。


 夕霧は茶碗を両手で包むように持ち、珈琲の表面をじっと見つめた。そこに映る行灯の光が、小さく美しく揺れている。まるで心の奥の感情が波打っているように。


 しばらくして、まるで大切な秘密を打ち明けるように、ゆっくりと口を開いた。


「私、来年の春で年季が明けるのです」


 年季。遊女としての契約期間のことだ。通常は十年で、二十七歳になるまでが原則だった。夕霧はまだ若い。きっと十代前半で売られてきたのだろう。それを思うと、胸が痛んだ。


「それは……」


 お春は慎重に言葉を選んだ。前世のカウンセリング技術では、クライエントの感情を決めつけてはいけないと学んでいた。相手の感情を引き出し、受け止めることが大切だった。


「どのようなお気持ちでいらっしゃいますか」


「やっと……やっと自由の身になれます」


 夕霧の声には、長い間暗い籠の中で抱き続けてきた夢への憧れが込められていた。しかし、すぐに美しい表情が雲に覆われたように曇る。


「でも……」


「でも?」


「想い人がいるのです。清吉という、大工の棟梁でして」


 その瞬間、夕霧の目が劇的に一変した。恋をしている女性だけが見せる、特別な光に満ちる。瞳がきらきらと星のように輝き、頬にも薄く桜色の赤みが差す。まるで冬枯れの野に花が咲いたような、美しい変化だった。


「優しいお方なのですね」


 お春の問いかけに、夕霧は嬉しそうに、幸せそうに頷いた。


「はい。初めて出会ったのは三年前の夏祭りで。私が用もないのにぼんやりと町を歩いていた時に、『大丈夫か』と声をかけてくださったのです」


 夕霧の声が弾んでいる。恋人のことを語る時だけに現れる、特別な輝きがあった。それは、どんな高価な宝石よりも美しい光だった。


「その時の清吉さんの目を、私は死ぬまで忘れることができません。私が遊女だと知っても、全く変わらない優しい眼差しで見てくださったのです」


「素晴らしい方ですね」


「はい。それからというもの、時々お店に足を運んでくださって。お客としてではなく、ただ私の話を聞くために」


 夕霧の表情がさらに柔らかく、美しくなった。真実の愛を知った女性だけが見せる、深い安らぎと幸福感がそこにあった。


「清吉さんは私に『お前は俺の大切な人だ。必ず迎えに行く』と言ってくださいます」


「それなのに、なぜ迷われるのですか」


 夕霧の表情が急に暗雲のように暗くなった。


「身請けには莫大なお金がかかるのです。私のような中級の遊女だと五百両は必要だと」


 お春は息を呑んだ。五百両といえば、庶民の十年分の生活費に相当する。大工の棟梁とはいえ、それは天文学的な金額だった。


「清吉さんは?」


「必死に工面しようとしてくれています。でも……」


 夕霧は俯いた。珈琲の湯気が頬を湿らせているように見えたが、それは涙だった。一粒、また一粒と、まるで夜露のように茶碗の中に落ちていく。


「大工の仕事は天候にも左右されます。怪我でもすれば収入が途絶えてしまいます。私のせいで、あの方の人生を台無しにしてしまうのではないかと」


 夕霧の華奢な肩が小刻みに震えていた。愛する人を苦しませたくない気持ちと、でも一緒にいたいという想いが、美しい心を残酷に引き裂いている。


 まず、クライエントの恐れの根源を明確にすること。問題を整理して、解決可能な形に分解することだった。


「夕霧さん、一番心配なのは何でしょうか」


「もしも身請けがうまくいかなかった時……年季が明けても、私には何も残りません」


 夕霧の美しい声が次第に小さくなっていく。


「読み書きもできないし、まともな商売のこともわからない。結局、また遊女に戻るしかないかもしれません」


 その言葉に込められた絶望の深さに、お春の胸が痛んだ。この人は、本当の意味での自立を求めているのだ。男性に頼るのではない、自分の力で生きていく道を。


 問題解決のためには、まず具体的で実現可能な目標設定が必要だ。そして、それを達成するための段階的なプランを立てること。希望を持てるようなビジョンを描くことが重要だった。


「夕霧さん、もし失礼でなければお聞きしますが、年はおいくつですか」


「二十一になります」


「では、年季明けまで約一年ありますね。その間に、読み書きと商売の基礎を学ぶことは十分可能です」


「学ぶ?」


 夕霧が顔を上げた。その目に、かすかだが確実な光が宿る。まるで暗闇の中に小さなろうそくが灯ったような、希望の光だった。


「はい。まず文字から始めましょう。毎朝この時間に来ていただければ、一字ずつ丁寧にお教えします」


「本当でございますか」


 夕霧の声に驚きと期待が込められていた。


「もちろんです。そして文字が書けるようになったら、商売の記録の付け方、お客様との接し方、商品の仕入れ方も」


 お春の言葉に、夕霧の表情が劇的に変わった。驚きと、そして長い間諦めていた夢が蘇る希望。その変化は見ている者の胸を打つほど美しかった。


「私にも……できるでしょうか」


「もちろんです。実は」


 お春は声を低くした。前世のことは言えないが、経験は伝えられる。


「私も昔、文字の読めない女性たちに教えた経験があります。皆さん、最初は不安がっていましたが、一年もすると立派に商売ができるようになりました」


 これは嘘ではない。大人の学習能力は、動機さえあれば驚くほど高いことを知っている。


「段階的に進めましょう。最初の一か月は、ひらがなから。二か月目にはカタカナ、三か月目からは簡単な漢字」


 夕霧の目が大きく見開かれた。まるで暗闇の中に太陽が昇ったような表情だった。


「そして半年もすれば、帳簿もつけられるようになります。商売の基礎知識も身につきます」


「でも、私はもう汚れた身で……そんな私に文字を教えてくださるなんて」


「そんなことはありません」


 お春の声は力強く、確信に満ちていた。前世でも、多くの女性に同じことを伝えてきた。


「人の価値は、過去によって決まるものではありません。これからどう生きるかで決まるのです。それに」


 お春は温かく微笑んだ。


「もし清吉さんが本当にあなたを愛していらっしゃるなら、あなたが自立への努力をしている姿を見て、きっともっと心強く思われるはずです」


 夕霧の表情がさらに明るくなった。希望の光が瞳に宿っている。


「そうでしょうか」


「きっとそうです。二人で力を合わせて身請け金を準備することもできるでしょう。あなたが文字を覚えて商売ができるようになれば、夫婦で店を営むこともできます」


 お春は具体的なプランを提示した。抽象的な希望ではなく、実現可能な道筋を示すこと。


「例えば、私がこうして珈琲を淹れているように、あなたも何か特技を身につけることができます。料理、裁縫、商売。選択肢はたくさんあります」


 夕霧は涙をぽろぽろとこぼした。でも、今度は絶望の涙ではなかった。希望の涙、新しい人生への期待の涙だった。それは真珠のように美しく、清らかに光っていた。


「本当に……本当に、私でも……」


「もちろんです。お互いに支え合える関係こそが、本当の夫婦のあり方だと思います。清吉さんだけに負担をかけるのではなく、二人で新しい人生を築いていく」


 夕霧は深く頭を下げた。その額が茶碗に触れそうになるほど深く。


「ありがとうございます。お春さん、あなたはまるで観音様のようなお方です」


「いえいえ、そんなことは」


「いいえ、本当です。今まで誰も、私が自分の力で生きていけるなんて言ってくれる人はいませんでした」


 夕霧は震える手で最後の珈琲を飲み干した。もう苦い顔はしなかった。むしろ、深い味わいを楽しんでいるような表情だった。


「このお薬湯……珈琲と申しましたね。最初は苦いけれど、飲み続けると不思議と心が軽やかになります」


「それは何よりです」


「まるで私の人生のようですね。今は苦しいけれど、きっと最後には甘い味わいが残る」


 お春の胸が温かくなった。夕霧の中で、希望という名の種が芽を出し始めている。その変化を見ているのは、何より嬉しいことだった。


「また来てもよろしいでしょうか。明日も、この時間に」


「もちろんです。いつでもお越しください。明日から早速、文字の勉強を始めましょう」


 夕霧は立ち上がり、懐から美しい髪飾りを取り出した。珊瑚でできた、職人の魂が宿った繊細な細工のものだった。夜の仕事で身につけていた華やかな装身具の一つだろう。


「これは心ばかりの品ですが、どうぞお受け取りください」


「そんな、お気遣いなく」


「いいえ、お気持ちです。それに……」


 夕霧は微笑んだ。今夜初めて見せる、心の底からの本当の笑顔だった。白粉の下から、本来の愛らしさが太陽のように輝いて見えた。


「これからは、そんな飾り物よりも、文字の読める手の方が大切ですから」


 お春は髪飾りを受け取った。手のひらに、夕霧の体温が温かく残っている。そして、新しい人生への決意も一緒に託されているような気がした。


「ありがとうございます。大切にいたします」


「私こそ、ありがとうございました。また必ず参ります」


 夕霧は深く一礼すると、まだ薄暗い外へと消えていった。朝霧に包まれた小さな後ろ姿が、なぜか以前より堂々として見えた。希望を見つけた人だけが持つ、凛とした美しい佇まいがあった。


 お春は珊瑚の髪飾りを見つめながら、しばらくその場に立ち尽くしていた。


 江戸時代の女性の苦悩は、また格別の重さがあった。身分制度、女性の社会的立場、経済的な束縛。すべてが現代よりもはるかに厳しい。


 でも同時に、夕霧のように諦めずに希望を持ち続ける強さもあった。その強さに触れて、お春自身も深く感動し、励まされる気持ちだった。


「お嬢様、もうお目覚めですか」


 お松が奥から現れた。


「はい。少し早い時間にお客様がいらして」


「お客様?こんな早くに?」


「ええ。遠いところから来られた方で」


 お春は珊瑚の髪飾りをそっと懐にしまった。夕霧の秘密を守るためでもあったが、何より、この出会いを大切に胸に秘めておきたかった。


「お松、今日は少し変わった珈琲豆の挽き方を試してみましょうか」


「はい。どのような?」


「もう少し細かく挽いて、苦味を和らげる方法です。きっと、多くの方にもっと親しんでいただけるはずです」


 お春は七輪の火を大きくした。今日もまた、多くの人の心に寄り添う一日が始まる。


 夕霧のような苦しみを抱えた人が、もしかしたら他にもいるかもしれない。その人たちにとって、この小さな珈琲茶屋が少しでも心の支えになれれば。


 朝の光が格子戸から金色に差し込み始めた時、お春の心には新しい決意が宿っていた。


 珈琲を通じて、ただ商売をするのではない。一人一人の人生に寄り添い、支えることのできる場所にしていきたい。


 珊瑚の髪飾りが胸元で小さく美しく光った。夕霧との約束を、お春は必ず守ろうと心に誓った。一年後、自立した女性として新しい人生を歩める日まで、全力で支援しよう。


 その時、遠くから朝の鐘の音が荘厳に聞こえてきた。


 ゴーンという深く美しい響きが、朝靄の中を神々しく伝わってくる。新しい一日の始まりを告げる、希望の調べだった。


 夕霧にも、清吉さんにも、そしてこの江戸の町で苦しむすべての人に、きっと良い日がやってくる。お春はそう信じて、また珈琲豆を挽き始めた。


 希望という名の珈琲を、今日も多くの人に届けるために。そして明日からは、一人の女性の新しい人生を支えるために。お春の胸に、前世で培った使命感が熱く、力強く蘇っていた。

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