「珈琲を一杯、いただけますか」
「もちろんです」
お春は今まで以上に丁寧に、魂を込めて珈琲を淹れた。信之のために、最高の一杯を作りたかった。心を込めて豆を挽き、温度も時間も完璧に調整する。愛しい人のために作る珈琲は、いつもより香りも味も格別のように思えた。
信之が珈琲を受け取る時、指先が軽く触れ合った。その瞬間、稲妻のような甘い感覚が全身を駆け抜け、お春の頬が燃えるように熱くなる。信之の指は温かく、少し荒れていた。剣の稽古を続けている武士の、誠実で強い手だった。
「ありがとうございます」
信之も少し照れたような、しかし幸せそうな表情を見せた。茶碗を持つ手が、わずかに震えている。
その時、人混みがざわめき始めた。
「花火が始まるぞ」
「上がった、上がった!」
夜空に、最初の花火が打ち上げられた。
シューッという美しい音とともに光の玉が空高く舞い上がり、オレンジ色の光が闇を切り裂いて大きな円を描いて広がる。ドンという大きな音が一拍遅れて響いてきて、群衆から歓声が天に向かって上がった。
「綺麗ですね」
お春が見上げると、信之も同じように空を見つめていた。花火の光が、信之の美しい横顔を神々しく照らし出している。
「はい。毎年見ていますが、やはり美しい。しかし、今夜は特別に美しく見えます」
二発目、三発目と続いて花火が上がる。光だけの花火だが、その分、夜空に描かれる光の軌跡が神秘的で幻想的だった。大きな音が響くたびに、お春の心臓も一緒に高鳴る。
人混みがさらに激しくなり、屋台の周りも押し合いへし合いの状態になった。
「これでは商売になりませんね」
信之が苦笑いした。
「少し場所を変えませんか」
「でも、商売が」
「もう売り切れですよ」
見ると、確かに珈琲はすべてなくなっていた。お松が嬉しそうに片付けを始めている。
「では」
信之は屋台を押しながら、人混みから離れた場所へと導いた。川岸の少し高台になったところで、花火が完璧に見える静かで美しい場所だった。
「ここなら落ち着いて見られます」
二人きりになった瞬間、空気が劇的に変わった。祭りの賑やかな喧騒が遠のいて、急に魔法のような静寂に包まれる。花火の光だけが、二人を幻想的で美しく照らしていた。
お春の心臓の音が、やけに大きく響いて聞こえる。田中美咲として過ごした前世では、恋愛も自由だった。好きになれば付き合い、結婚も当人同士の意思で決められた。しかし、この江戸時代では、身分という越えられない高い壁がある。その現実が、胸を締め付けるような痛みとなって迫ってくる。
「今日は大盛況でしたね」
信之が話しかけた。声が少し震えている。
「はい。珈琲講のおかげで、本当に多くの方に知っていただけました」
「あの件は聞いております。大変だったでしょう」
信之の声に、深い心配と労りが込められていた。お春を案じる気持ちが、言葉の端々に愛おしさとなって滲んでいる。
「でも、乗り越えられました。多くの方が助けてくださったので」
お春は振り返って微笑んだ。信之も優しく、深い愛情を込めて微笑み返す。その笑顔に、お春の胸がきゅっと甘く締め付けられた。
また花火が上がった。今度はより大きく、より美しい光の輪が夜空に見事に描かれた。光が二人の顔を神々しく照らし、そしてすぐに闇に戻る。
「お春殿」
信之が急に真剣な表情になった。
「はい」
お春の胸が激しく跳ねた。何かを言いたそうな、でも迷っているような表情を信之が見せている。
「あの雨の日以来、ずっと考え続けていたことがあります」
「どのようなことでしょうか」
「お春殿とお話ししていると、心が安らぎ、魂が救われるような気持ちになります。商売のお悩みも、恋の悩みも、すべてお話ししたくなる」
信之の目が、花火の光を反射してきらめいていた。その瞳の奥に、深く熱い感情が宿っている。
「ありがとうございます」
「でも」
信之の表情が急に苦しそうに曇った。眉間に深い皺が刻まれ、口元も痛みに歪む。
「私は旗本の次男、お春殿は商人の娘。この身分の差は、法によって厳格に定められております」
お春の胸に、氷の刃で心臓を貫かれたような冷たい痛みが走った。
「武士が身分違いの縁組をするには、藩主の許可が必要です。しかし、商人との結婚など、決して許されるはずがありません」
信之の声が震えている。その苦しみは、お春にも痛いほど、胸を引き裂くほど伝わってきた。
「最悪の場合、家名断絶、所領没収という処罰も覚悟しなければなりません」
お春の目から、涙がこぼれそうになった。現代なら、愛があれば一緒になれる。しかし、この時代では、愛だけではどうにもならない残酷な現実がある。
「これ以上お会いするのは、お春殿にとって良くないことかもしれません」
「そんなことは」
お春は思わず声を上げそうになった。でも、信之の苦悩している表情を見ると、言葉が喉に詰まってしまった。その苦しみは本物だった。
「私もお春殿と同じ気持ちです」
信之が振り返る。その目に、深く熱い愛情と、それと同じくらい深い絶望が宿っていた。
「でも、だからこそ、これ以上は」
花火がまた上がった。今夜一番大きな光が空いっぱいに広がり、二人を明るく照らし出す。そしてすぐに闇に戻る。まるで二人の運命を象徴しているようだった。一瞬の美しさと、その後に続く暗闇。
「信之様」
お春の目に、涙が溢れてきた。胸の奥に、言いようのない痛みが渦巻いている。
「私は」
「お春殿」
信之はお春の方に向き直って、その小さな手をそっと握った。温かくて、大きくて、優しい手だった。しかし、その手も激しく震えている。
「私の気持ちは決して変わりません。でも、身分の壁は現実です。お春殿を不幸にするわけにはいきません」
「分かっています」
涙がひとつぶ頬を伝った。それでも、お春は信之の目をまっすぐに見つめた。前世で学んだことがある。本当の愛は、相手の幸せを第一に考えるものだと。でも、それでも諦めきれない気持ちもある。
「でも、それでも私は」
「それでも?」
「待っています」
お春の声は震えていた。しかし、その中に確固たる意志があった。
「もしかしたら、何か方法があるかもしれません。時代が変わることもあります」
信之の目にも、涙が浮かんでいた。
「お春殿」
「私、前世で」
また口が滑りそうになって、慌てて言い直す。
「夢でいろいろな世界を見ました。身分を超えた愛が成就することもありました」
二人の距離が縮まった。しかし、最後の一歩が踏み出せない。身分の壁が、目に見えない巨大な境界線となって二人の間に立ちはだかっている。
その時、今夜最大の花火が上がった。
空いっぱいに広がる巨大な光の輪。群衆からも、今夜一番大きな感嘆の歓声が天に向かって上がった。光に照らされた二人の顔が、一瞬だけ神々しくはっきりと見えた。信之の決意に満ちた美しい表情、お春の希望に燃える瞳。
「私も待ちます」
信之が小さく、しかし確かにつぶやいた。
「必ず道を見つけます。たとえ武士を捨てることになっても」
「いえ、そのようなことは」
お春は首を振った。
「信之様らしく生きてください。きっと、お二人ともが幸せになれる道があります」
「はい」
信之は涙を拭って、強く頷いた。胸の痛みの奥に、小さな希望の光が確かに灯っている。
花火が終わり、人々が三々五々帰り始めた頃、二人もゆっくりと歩き始めた。
足音だけが静かに響く。言葉は少ないが、心は深く通じ合っている。
「今夜は、ありがとうございました」
「いえ、こちらこそ」
別れ際、信之が振り返った。その表情に、痛みと希望が複雑に入り混じっている。
「また必ず」
「はい。待っています」
信之が人混みの中に消えていくのを、お春はいつまでも見つめていた。胸が痛いのに、同時に温かくもある。愛することの喜びと苦しみが同時に存在する、不思議で複雑な感情だった。
その夜、家に帰ったお春は、一人で今日のことを振り返っていた。
珈琲の大盛況、甚兵衛の新作菓子、そして信之との運命的な再会。
身分の壁は確かに高い。でも、お互いの気持ちは確認できた。それだけでも、今夜は十分だった。信之の温かい手のひらの感触が、まだ手に残っている。
前世では当たり前だった自由恋愛も、この時代では命がけの選択になる。それでも、愛は愛だ。きっと道はある。
「必ず道はある」
お春は窓から夜空を見上げて、小さくつぶやいた。
花火の余韻が、まだ心に残っている。遠い空に、まだかすかに光の残像が見えるような気がした。
明日からまた、商売に励もう。そして、いつか必ずやってくる、その日のために準備をしておこう。愛する人のために、自分も成長し続けなければ。
遠くで夜警の拍子木が響いている。「火の用心、火の用心」という声が、静かな夜を告げていた。
珈琲茶屋の新しい挑戦と、身分を超えた愛の物語が、また一歩大きく前進した夜だった。商売の圧倒的な成功と恋の深い進展。二つの幸せが同時に訪れた、記念すべき特別な夜でもあった。
星空の下、お春の心には希望の光が静かに、しかし確かに燃え続けていた。そして、田中美咲として学んだ「愛は時代を超える」という信念が、胸の奥で力強く息づいていた。