夕暮れ時の両国橋は、まるで江戸中の人が一斉に押し寄せたかのような、前代未聞の賑わいだった。
旧暦五月二十八日、川開きの日。一年で最も江戸の人々が心待ちにする夜がついにやってきた。
橋の上も下も川岸も、晴れ着に身を包んだ人々で埋め尽くされている。若い娘たちの艶やかな浴衣が夕風に舞い、色とりどりの帯が虹のように美しい。商人たちの上質な夏着物が夕日に映え、金糸銀糸の刺繍がきらめいている。子供たちの可愛らしい甚平姿が人混みを縫って駆け回り、まるで人間の花園のような圧倒的な美しさが広がっていた。
川面には屋形船が無数に浮かび、提灯の柔らかな光が水に映って幻想的な光の道を作り出している。三味線の涼やかな音色が複数の船から響き合い、太鼓の力強い響きが祭りの高揚感を最高潮まで押し上げていた。芸者の美しい歌声が水面を渡って響き、聞く者の心を酔わせている。
空気は夏祭りの魔法に包まれていた。焼き魚の香ばしい匂い、甘い飴の誘惑的な香り、汗ばんだ人々の熱気、そして夏の夜風が運ぶ川の涼やかさ。すべてが混じり合って、江戸の夏の夜にしか味わえない豊かで官能的な香りを作り出していた。
お春は手作りの移動屋台の前で、額に滲む汗を手ぬぐいで拭いながら、信じられないような光景を目の当たりにしていた。浴衣の襟元も汗ばんで、頬は興奮と達成感で紅潮している。心臓が祭り囃子のように高鳴り、胸の奥に抑えきれない喜びが波のように押し寄せてくる。
「まさか、こんなに」
朝から仕込んだ珈琲豆が信じられない速度で減っていく。予想をはるかに超える人出に、嬉しい悲鳴どころか感激の涙が込み上げそうになった。袖で額の汗を拭いながら、お春は夢のような成功の実感に全身が震えていた。
この移動屋台は甚兵衛の天才的なアイデアで作られたものだった。大八車に七輪と珈琲道具一式を見事に積み込み、その場で熱々の珈琲を淹れて提供できるよう巧みに設計されている。車輪には赤、青、黄色の色とりどりの提灯を取り付け、「珈琲」と美しく書かれた紺地の暖簾が夕風に涼しげに踊っていた。まるで移動する宝石箱のような美しさだった。
七輪の上では焙烙がパチパチと心地良い音を立て、珈琲豆が香ばしく誘惑的な匂いを辺り一面に漂わせている。その香りは祭りの無数の匂いの中でもひと際異彩を放ち、道行く人々の足を魔法のように引き寄せていく。人々の鼻がひくひくと動き、香りの出所を探すような仕草を見せる度に、お春の胸は誇らしさで満たされた。
「おお、これが噂の珈琲か」
「なんとも言えぬ良い香りじゃないか」
「一杯試してみよう、絶対に試してみよう」
次から次へと客が押し寄せ、お春の手は一瞬たりとも休む間がなく動き続けた。まさに引く手あまたとはこのことだった。
「お春さん、珈琲を頼む!急いでくれ!」
威勢の良い職人風の男性が声をかけた。日に焼けた精悍な顔に人懐っこい笑顔を浮かべ、祭りの楽しさが全身から弾けるように溢れている。
「はい、最高の一杯をお作りいたします」
お春は熟練した手つきで焙煎した豆をすり鉢で挽き始めた。ゴリゴリという心地良いリズムが響く中、濃厚で深みのある珈琲の香りがさらに強烈に立ち上がる。急須に移して沸騰直前の熱湯を注ぎ、丁寧に蒸らしてから美しい茶碗に注いだ。
湯気が立ち上る美しい琥珀色の液体を見て、客たちの期待が最高潮に高まっているのが手に取るように分かる。
「どうぞ、心を込めてお作りいたしました」
「おお、これが噂の珍品か」
男性が茶碗を受け取り、まず香りを深く、深く吸い込んだ。目を閉じて、初めて嗅ぐ神秘的な香りを全身で楽しんでいる。
「なるほど、確かに今まで嗅いだことのない香りじゃ」
恐る恐る口をつけ、しばらく味わってから目を大きく見開いた。まるで雷に打たれたような驚きの表情を見せる。
「これは驚いた!頭がすっきりと冴えて、身体の奥から力が湧いてくる。夜なべ仕事には、これ以上ないほど素晴らしい」
満足そうに深く頷きながら、代金を置いて去っていく。その表情には、新しい世界に出会った驚きと深い満足が刻まれていた。
その劇的な様子を見ていた周囲の人たちからも、怒涛のように注文が相次いだ。
「俺にも一杯、急いでくれ」
「私も絶対に試してみたい」
「これは百杯どころか二百杯は売れるんじゃないか」
人々の声には好奇心と親しみ、そして期待が込められている。珈琲講以降、風向きは劇的に変わっていた。「毒の薬湯」から「頭が冴える奇跡の薬湯」へと評判が一八○度転換し、人々の表情にも警戒ではなく熱い期待が宿っていた。
「どうぞ、心を込めてお試しください」
お春は一杯一杯、魂を込めて淹れていく。客の表情が驚きから感動へ、そして満足へと変わる瞬間を見るのが、何より嬉しかった。田中美咲として前世で経験したカフェでの喜びが、江戸時代でも同じように、いや、それ以上に深く味わえることに、胸が熱く燃え上がった。前世では機械で効率よく作ることもできたが、一杯一杯手で淹れる丁寧さと真心に、かえって深い満足と充実感を感じていた。
午後の日差しが優しく傾き始めた頃、人混みの向こうから甚兵衛の貫禄ある姿が見えた。涼しげな上質な麻の着物を着こなし、いつもの厳しい表情も今日は穏やかで満足げだった。後ろからお菊も続いて、薄紫の浴衣姿が夕暮れの光に映えて、まるで美しい花のようだった。
「お疲れさんじゃ」
甚兵衛が大きな竹籠をそっと下ろしながら言った。中からは上品で誘惑的な甘い香りが漂ってくる。その香りだけで、新しい傑作菓子への期待が胸躍るほど膨らんだ。
「おかげさまで、亀屋でも珈琲饅頭が嵐のように売れておる。今日だけで四百個は出たかの」
甚兵衛の声には、商人としての深い満足と誇らしさが心から滲んでいた。その表情には、新しい挑戦が成功した時の職人の喜びが刻まれている。
「それは本当に素晴らしいことです。こちらも、なんと二百杯を超えました」
お春の心に、温かな感動が大きな波となって広がった。協力して作り上げた珈琲饅頭が、これほど多くの人に愛されている。その喜びを甚兵衛と共有できることが、何より幸せだった。具体的な数字で語れる圧倒的な成功が、お春に確かな手応えと自信を与えていた。
「父上も、初めはどうなることかと心配しておりましたが」
お菊が美しい笑顔を浮かべながら口を挟んだ。その笑顔には、父への深い愛情と新しい挑戦への純粋な喜びが溢れている。
「今では珈琲饅頭なしの亀屋は考えられないと申しております」
お菊の手にした籠の中を覗くと、見たこともない美しい芸術品のような菓子があった。透明な寒天に珈琲の琥珀色が宝石のように美しく閉じ込められ、まるで職人の魂が込められた宝石のような輝きを放っている。涼やかで幻想的な見た目に、思わず息を呑んでしまった。
「これは?」
「新作でございます」
お菊の目が満天の星のように輝いた。職人としての誇りと創作への情熱が、その表情に太陽のように溢れている。頬も興奮と達成感で美しく紅潮している。
「珈琲寒天と名付けました。夏の暑さにも負けない、涼しげな菓子を考えてみたのです」
「なんと素晴らしい発想でしょう」
お春は心の底から感動した。前世でも、夏にはアイスコーヒーやコーヒーゼリーが大人気だった。それを江戸時代の技術と感性で見事に再現したお菊の天才的な才能に、深い敬意と感動を抱いた。
「珈琲の苦味を寒天の清涼感が優しく和らげて、暑い夏でもさっぱりといただけます」
一つ摘んで口に入れてみると、寒天の冷たく滑らかな食感の中に珈琲の深く複雑な味わいが見事に広がった。暑さで火照った身体に、涼やかで上品な美味しさが清流のように沁み渡っていく。
「今度はこれと組み合わせて、冷やした珈琲も提供してみましょうか」
「冷やした珈琲?」
甚兵衛が興味深そうに眉を上げた。職人の本能が、新しい可能性を感じ取っている。
「はい。氷で冷やした珈琲も、格別に美味しいのです」
お春の頭の中で、アイスコーヒーの完璧なレシピが鮮明に蘇ってくる。江戸時代でも氷は手に入る。夏の新しい楽しみとして、きっと多くの人に受け入れてもらえるはずだ。
「面白そうじゃな。また今度、必ず一緒に試してみよう」
甚兵衛の目に、職人らしい探究心が炎のように燃え上がった。
夕刻が近づくにつれ、人出はさらに爆発的に増していった。
両国橋周辺は身動きが取れないほどの人の海で、屋台の周りにも常に長蛇の列ができている。お春の手は一秒たりとも休む間がなく動き続け、七輪の火は絶えることなく燃え続けていた。まるで戦場のような忙しさだったが、それは最高に幸せな戦場だった。
川面に浮かぶ屋形船からは、三味線の音色と共に芸者の美しい歌声が聞こえてくる。
「川開きじゃ、川開きじゃ、今宵は涼みに参りましょう」
船上の人々の楽しげな笑い声が水面に響き、提灯の光が波にゆらゆらと映えている。その美しさは絵画のようで、屋台の客たちも思わず見とれて足を止めていた。
「まもなく花火が始まりますな」
常連客の一人が空を見上げながら期待を込めて言った。空には薄い雲が浮かび、夜の帳がゆっくりと、しかし確実に降りてきている。
「珈琲、あと何杯分ありますか」
お松が心配そうに尋ねる。額に汗を滲ませながら、せっせと茶碗を洗い続けていた。その手つきからも、この大成功への驚きが伝わってくる。
「あと五杯ほどです」
「このぶんでは、すぐに完売ですね。こんなこと、夢のようです」
そんな会話を交わしていた時だった。
人混みの向こうから、見覚えのある凛とした姿が近づいてくるのが見えた。
藤原信之だった。
お春の胸が、雷に打たれたように激しく跳ね上がった。血の気が一瞬で引き、それから一気に顔が炎のように火照った。あの雨の日以来、何度夢に見たことか。会いたいと思いながらも、身分の違いという現実を前に、複雑で切ない気持ちで日々を過ごしていた。
手のひらに汗が滲み、茶碗を持つ手が震えそうになる。心臓が太鼓のように激しく鳴り響いている。
信之は紺地に白い縞模様の上品な浴衣を着て、腰に美しい扇子を差している。武士らしい凛とした立ち姿は人混みの中でもひと際目を引き、行き交う人々が振り返って見とれるほどの存在感があった。まるで物語の主人公が現実に現れたような、圧倒的な美しさだった。
しかし、その美しい表情には以前にも増して深い憂いを帯びた影があり、何か重大な悩みを抱えているように見えた。眉間に小さく皺を寄せ、時折深いため息をついている。その姿が、お春の胸を痛いほど締め付けた。
人波に押されながらも、信之の視線はまっすぐに、まるで運命に導かれるようにお春を見つめている。その瞬間、祭りの喧騒がすべて遠のき、世界には雷鳴のような静寂が支配し、お春と信之の二人だけが存在するかのような錯覚に陥った。
目が合った瞬間、信之の憂いを帯びた表情がぱっと春の花が咲くように明るくなった。それまで眉間に寄せていた皺が嘘のように消え、目尻に優しく温かい笑みが浮かぶ。まるで暗い夜空に太陽が昇ったような、劇的で美しい変化だった。
「お春殿」
人混みをかき分けて近づいてくる信之の声には、抑えきれない喜びと愛おしさが込められていた。その声を聞いた瞬間、お春の胸に温かな安堵が大きな波となって押し寄せてきた。
「信之様」
お春も思わず花が咲くような笑顔になった。心臓が祭りの太鼓のように激しく跳ねているのを隠そうと、必死に平静を装おうとするが、頬が自然と緩んでしまう。袖で顔を隠したくなるような恥ずかしさと、素直に喜びを表現したい気持ちが心の中で激しく交錯していた。
「お変わりありませんでしたか」
信之が屋台の前で立ち止まりながら、心配そうに尋ねた。その目は、お春の顔を隅々まで愛おしそうに見つめている。健康そうな頬の色、生き生きとした瞳の輝き、充実した日々を過ごしていることを確認して、深く安心したような表情を見せた。
「はい、おかげさまで。信之様こそ、お元気そうで何よりです」
しかし、よく見ると、信之の頬は以前よりも明らかにこけているように見えた。目の下にも薄い隈があり、何かに深く思い悩んでいる様子が痛いほど窺える。お春の胸に、切ない心配の念が湧いてきた。
何か辛いことがあったのだろうか。あの縁談の件で、まだ苦しんでいるのだろうか。
信之は屋台を見回して、心から感心したような表情を見せた。
「立派な商売をされておりますな。この驚くべき賑わいぶりを見ていると、珈琲が江戸の人々に深く愛されているのがよく分かります」
「ありがとうございます」
お春は誇らしさで胸がいっぱいになった。あの雨の日の小さな茶屋から、ここまで発展した商売を信之に見せることができて、言葉では表現できないほど嬉しかった。同時に、信之に認めてもらえたという満足感が、心を温かく満たしていた。
「あの時お話しいただいた通り、本当に多くの方々に愛される場所になりましたね」
信之の声には、お春の成長を心から祝福し、誇らしく思う気持ちが深く込められている。
「信之様にいただいたお言葉が、いつも励みになっておりました」
お春のその言葉に、信之の目がきらりと星のように光った。嬉しそうな、それでいて少し切ないような複雑で美しい表情を見せる。