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第7話 「商売敵の出現」後半

 会場は神田の寺子屋を借りることになった。師匠が蘭学に理解を示し、快く協力してくれたのだ。


 玄白は珈琲の医学的効能について、オランダの医学書を参照しながら資料をまとめた。津川は実際の症例を細かく調べ上げ、木村と佐藤は珈琲豆の産地や製法について詳細な研究を行った。


 お春も準備に余念がなかった。前世の知識を総動員して、珈琲の歴史と効能について分かりやすく説明する資料を作成する。夜遅くまで筆を走らせ、江戸の人々に理解してもらえる内容に仕上げていく。


 コーヒーがヨーロッパでどのように受け入れられ、医学的にどんな研究がなされているか。現代の知識を江戸時代の人々に理解できる形に翻訳するのは、想像以上に困難だった。


 一週間後、『珈琲講』の日がやってきた。


 寺子屋には予想をはるかに超える人が詰めかけた。会場は人々の熱気で蒸し暑く、ざわめきが天井まで届いている。好奇心旺盛な町人、学者、商人、そして後方に松葉屋権三の姿もあった。権三は腕を組んで不機嫌そうな表情を浮かべているが、その目には明らかな不安の色が浮かんでいた。額にうっすらと汗が滲んでいる。


 会場の空気は緊張で張り詰めていた。人々のざわめき、期待と不安の入り混じった雰囲気。お春の手のひらに、冷たい汗が滲んでくる。心臓が太鼓のように激しく鳴っている。


 講演の司会は玄白が務めた。


「本日は珈琲講にお集まりいただき、誠にありがとうございます」


 玄白の声が会場に響く。普段より大きな声で、一字一句をはっきりと話している。


「最近、珈琲に関する誤った情報が流れておりますが、我々医師の立場から、正しい知識をお伝えしたいと思います」


 会場がし一んと静まりかえった。人々の視線が一斉にこちらに集中する。


 まず津川が、珈琲の医学的効能について詳しく説明した。


「珈琲は頭脳を明晰にし、疲労を回復させます。オランダの医学書『薬品応手録』にも、その効果が明記されております」


 実際にオランダの医学書を掲げながら、具体的な効能を一つ一つ丁寧に説明していく。会場の空気が少しずつ変わってきた。


 続いて木村が、珈琲豆の産地と製法について解説した。


「珈琲豆は南の暖かい国で栽培され、適切に焙煎することで香り高い飲み物となります。製造過程で毒性が生まれることは一切ございません」


 実際の珈琲豆を手に取って見せながら、その美しい形と色艶を説明する。参加者たちが身を乗り出して見つめている。


 佐藤は実際の症例を紹介した。


「珈琲を飲んだことによる害の報告は、オランダでも日本でも一例もありません。むしろ、学問に集中したい方々には非常に有効であることが確認されています」


 会場の人々が、真剣に耳を傾けている。メモを取る者、頷きながら聞く者。空気が確実に変わってきた。疑念が興味に変わり、敵意が好奇心に変わっていく。


 最後に、お春が実演を行った。


「では、実際に珈琲を作る過程をご覧いただきます」


 参加者の前で珈琲豆を焙煎し、その香りを楽しんでもらう。パチパチと弾ける音が会場に響き、香ばしい匂いが立ち上がる。参加者たちの表情が一変した。


「あ」


「なんと良い香り」


「これが毒だなんて、とても思えない」


 会場から感嘆の声が次々と上がった。


「この香りからも分かるように、決して毒々しいものではございません」


 丁寧に抽出して、実際に試飲してもらった。お春の心臓は嵐のように激しく鼓動を打っている。手が震えて、茶碗を持つのがやっとだった。


「いかがでしょうか」


 お春が会場に問いかけた。声が震えている。


 参加者たちからは、驚きの声が次々と上がった。


「確かに頭がすっきりする」


「思ったより飲みやすい」


「これが毒だなんて、とても思えない」


「むしろ身体が温まって調子が良い」


「これは素晴らしい」


 権三の顔が、見る見るうちに青ざめていく。額の汗がだらだらと流れ、手をわなわなと震わせている。


 その時、会場の後ろから男性が立ち上がった。


「私は町役人の山村と申します」


 会場がどよめいた。町役人の発言となれば、これは公的な見解として重要だ。人々の視線が一斉に集中し、会場は水を打ったように静寂に包まれた。


「本日の講演を拝聴し、また実際に珈琲を試飲させていただきました」


 村山の声は落ち着いていて、威厳があった。その一言一言が、会場の空気を支配している。


「その結果として、公式に申し上げます」


 息をする音さえ聞こえそうなほどの静寂が訪れた。


「珈琲に毒性は一切認められません。むしろ、有益な効果のある健全な飲み物であると判断いたします」


 会場から大きな拍手が起こった。お春の目から、安堵の涙がとめどなくこぼれる。


「従って、珈琲茶屋『春庵』は何の問題もない、健全な商売であると正式に認定いたします」


 拍手がさらに大きくなった。人々の表情が、明らかに親しみやすいものに変わっている。先ほまでの疑念はすっかり消え去り、代わりに興味と好感が宿っている。


 権三は慌てて会場を出ていこうとしたが、参加者たちに囲まれてしまった。


「松葉屋さん、あんたが噂を流したんじゃないのかい」


「新参者を潰そうとしたんだろう」


「卑怯なやり方じゃないか」


「老舗の看板が泣くぞ」


 権三の顔は真っ赤になった。汗がだらだらと流れ、呼吸も荒い。長年の商売人としてのプライドが、音を立てて崩れていく音が聞こえるようだった。


「わ、わしは何も」


「もういい」


 町役人の村山が厳しい声で制した。その声には、公正な裁判官のような威厳があった。


「松葉屋権三、根拠のない噂を流したことについて、後日詳しく聞かせてもらう」


 権三は肩を落として、這々の体で去っていった。その後ろ姿には、老舗の威厳はもはやなく、ただの哀れな老人の影だけが残っていた。しかし、お春の胸には勝利感とともに、権三への同情の念も湧いていた。


 その夜、珈琲茶屋『春庵』には久しぶりに活気が戻ってきた。


 講演に参加した人たちが、実際に珈琲を飲みに続々とやって来たのだ。店は満席になり、お春は嬉しい悲鳴を上げていた。


「先ほどはありがとうございました」


「いえいえ、こちらこそ」


 玄白たち医師も店を訪れ、今日の成功を祝った。


「素晴らしい講演でした。お春殿の説明も、とても分かりやすかった」


「皆様のおかげです」


 お春は深々と頭を下げた。胸が熱くなって、言葉がうまく出ない。


「一人では、とてもここまでできませんでした」


「いや、お春殿の珈琲への想いがあったからこそです」


 津川が微笑んだ。


「我々も、真実を知ってもらえて良かった。医学の進歩のためにも」


 甚兵衛とお菊も駆けつけてくれた。


「大変じゃったのう」


 甚兵衛の声に、深い安堵が込められている。


「でも、乗り越えましたね。これで安心して、また新しい菓子作りに専念できます」


 お菊の声には、安堵と喜びが溢れていた。


「これからも、一緒に新しい味を作っていきましょう」


 お春は珈琲を淹れながら、今日一日を振り返っていた。


 危機に陥った時、多くの人が手を差し伸べてくれた。医師たち、町役人、寺子屋の師匠、そして参加してくれた町の人々。前世でも感じたことだが、一人の力では限界がある。しかし、志を同じくする仲間がいれば、どんな困難も乗り越えられる。


 珈琲の香りが店内に広がる中、お春は感謝の気持ちで胸が満たされていた。


「ありがとうございました」


 小さくつぶやいて、お春は茶碗を大切に洗った。


 明日からまた、多くの人に珈琲の素晴らしさを伝えていこう。今度はもっと自信を持って、胸を張って。そして、権三のような人にも、いつかは珈琲の良さを理解してもらえる日が来ることを信じて。


 遠くで夜警の拍子木が響いている。「火の用心、火の用心」という声が、平和な夜を告げていた。


 珈琲茶屋『春庵』は、試練を乗り越えてさらに強くなった。多くの仲間に支えられながら、新しい文化を江戸にしっかりと根付かせていく。


 お春の心は、希望と決意で満ち溢れていた。そして同時に、商売の世界の厳しさと、人と人とのつながりの大切さを、深く心に刻んでいた。

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